デフレと聖書

とうとう政府もデフレという言葉を使うようになった。
このままいけばスパイラルにもなりかねない状態だ。
それを防ぐには、消費が増えなければどうしようもない。

ところが、最近では、「特に欲しいものも無いしね・・」という声もよく聞く。
また、環境問題の観点からは、消費型の経済は危険な破滅への道だとも言われる。

とすれば、環境を保全しつつ、なお経済が活性化されるには、
循環型の社会の構築はもとより、より非物質的消費、すなわち情報や無形文化を中心とした文明に移行するしかない。

物質から情報へ。有形から無形へである。実はこれこそ聖書の立場に他ならない。

聖書では、まず神に形がない。
そして、この無形の神は、言葉という情報を通して人類と交流をするお方である。

ただし、この神の情報は、単なる無機的なことばの羅列ではなく、
神の人格(というより神格)を表した、生きた情報である。
これを文字通り表したのがイエス、すなわち人となった神のことばに他ならない。

ただし、このイエスは神のかたちであるけれども、ある意味では単純な生き神様として偶像崇拝される危険が常にある。
(イエスを偶像崇拝などというと、おまえはイエスの神格を認めない異端者だと言う人が必ずいるであろうが、それは誤解である。ここで言っているのは、神の無形性を無視した、すなわち父なる神不在のイエス一神教となる危険である。)

だからイエスは復活後、いつまでも地上に留まらず天に帰られ、聖霊を地上に送られた。
この聖霊こそ、生ける神のことばであるキリストの霊である。
霊であるが故に形がない。しかし、単なる死んだ情報としてのことばではなく、
イエスによって具体的にあらわされた人格的な存在である。
今日が聖霊の時代と呼ばれる所以である。

ここで、賢明な読者はすぐに反論されるであろう。
「今はそうでも、イエスは再臨されるではないか。それとも、この筆者は霊的な再臨のみを信じているのか?」と。

この問題は次回に扱うとしよう。

 

つづく。