ユダヤジョーク

 

最近、あるユダヤジョークを聞いた。
ユダヤといえば十戒だが、最初は五戒だったという話だ。
その五戒を与えようと、神はいろいろな民族に語りかけた。
ルーマニア人に、「五戒を与えよう。」と神が言うと、
ルーマニア人は、「例えばどんな戒めですか?」と尋ねた。
そこで神は、
「例えば、盗むなという戒めだ。」と答えると、彼らは、「それじゃ、
生活できません。五戒は結構です。」と答えた。
神が次にアフリカの部族に同じことを尋ねると、
彼らも同様に、どんな戒めか聞いた。
「例えば、隣人を愛せという戒めだ。」との答えに、
やはり彼らは、「結構です。隣の部族を愛するなんてまっぴらです。」
とつれない返事。
フランス人にも、「例えば隣人の妻を欲しがってはならない。」と言うと、
「それじゃ生きている甲斐がありません。」と、だれも五戒を欲しがらなかった。
しかたなく最後に、神はユダヤ人のところに言って、「五戒を与えよう。」と言うと、
なんと彼らは、「それはいくらですか?」と尋ねた。
神は、「もちろん無料だ。」と答えると、彼らはすかさず、「それなら倍にして
ください。」と要求。それで、五戒は十戒になったのである。
とまあ、だいたいこんなような話だ。(詳細はちょっとあやしい・・)
周りからはガメツイとの悪評(偏見)を受けている彼らが、あえて自分たちのことを
そのように描写しているところが、いかにも頭の柔らかいユダヤ人的なところである。
しかしこのジョーク、すこし考えてみると、なかなか奥が深い。
異邦人的な思考とユダヤ的な思考がよく対比されているからだ。
異邦人的思考とは、物事に対して、「それは何か?」と問う思考法である。
カントの「物自体」などがすぐに思い出されるかもしれない。
物とは何か、人とは何か、真理とは何か、神とは何か・・・・
それに対して、ユダヤ的思考とは、「何か」ではなく「どのように働くか」であり、
対象の分析よりも、自分とどう関わるか、すなわち作用や関係を追求する思考法である。
ブーバーの「我と汝」は有名だ。
だから、五戒とは何かと問うのではなく、それは自分とどう関わるのかを問う。
その一番卑近な例が、「なんぼ?(失礼、いくらの意味)」という問いなのだ。
答えよりも問いを大事にするユダヤ的思考。それは、物事を固定的に捉えず、
自分も含めたダイナミックで開かれた、生成途上にあるものとして把握する思考といえるだろう。
おそるべし、ユダヤジョークである。