さらには、BSデジタル放送も始まり、ますます情報の流通が高度化してきた。
しかし、インフラ整備は結構であるとしても、問題は中身だ。
人に言わせれば、BSデジタルの番組は、地上波放送でおはこになったようなものばかり、
ただ「きれいな」画質で放送しているにすぎないという。
それは言い過ぎにしても、これぞデジタルと言えるようなものが出てくるまでには
長い道のりがあるのかもしれない。
インターネットにしても、光ファイバーは結構だが、その前にフレッツISDNの料金を
半額にするぐらいのことをしないと始まらないだろう。
また、接続はしたものの、期待した内容が見当たらないということで、メール交換しか
していない人も多いと聞く。ここでも、中身、コンテンツが問われている。
(などと言いながら、このような駄文を書いている自分も滑稽だが・・・)
それはそうと、ここでいうコンテンツとは言うまでもなく情報である。
しかし、一番大事なのは、情報そのものではなくて、
情報が示している対象であることはいうまでもない。
また情報そのものにしても、単に視覚や聴覚によるものだけでなく、
触覚、嗅覚、味覚などによる情報も大事だ。
さらに言えば、これらの様々な情報を統合し、対象を深く認知する能力が最も重要である。
つまり、「知る」ということの内容そのものが問われているわけである。
アイティーの掛け声の中に埋没せず、また情報の洪水に押し流されることなく生活しようと
いうのであれば、
「知る」というのは、単に文字、音声、映像などの情報の授受に解消されるもではないという、
あたりまえな原点に帰らなければならないであろう。
そして多様な情報を統合し、「意味」を汲み取る能力を養わなければならない。
そのためには、何よりも、内容のある「問い」を持ち、適切に問いかけ続けることが必要である。
すなわち、出来合いの「答え」をもらう、あるいは選び出す力ではなく、問う力である。
模範回答ではなく、「なぜ」である。
しかも、単に知的に、分析的に問うだけでなく、より意味深い統合をめざしての問いである。
というわけで、例えばこんな学校はどうだろう。
そこでは、試験問題は生徒が作る。問題を作るのが試験だ。
そして、その問題を解く先生を「うーん」とうならすような問題が作れたら高得点を与える。
(もちろん、小学生が大学の問題をコピーするなんていうのは最低ですよ・・)