エルサレムの巡礼

もう数週間前になるが、あるテレビニュース番組で、エルサレムの特集があった。

前途多難な中東和平交渉に関連して、その基礎知識として、エルサレム、特に「旧市街」とはどんな所かおさらいをしようというものだ。現地のレポートも、ユダヤ人地区、イスラム教徒地区、キリスト教徒地区、その他の地区のそれぞれの様子を伝えていて、よくもまあ、あんなに狭い地域に、色とりどりの人が住んでいるものだと、改めて認識を新たにさせるものであった。

言うまでもなく、「旧市街」とは、いわゆる神殿の丘を中心とした、古代エルサレムからの地区で、神殿の丘と呼ばれるのは、昔そこにユダヤ神殿があったからである。今日では、代わりにイスラム教の黄金のモスクが建っていて、そのすぐそばには、西壁(通称嘆きの壁)という、ユダヤ教の聖地がある。そして至近距離には、イエスの歩いた道や、十字架、埋葬の場所など、キリスト教の巡礼地もある。というわけで、この地区に対してだれが主権をもっているかということは、まさに世界中の関心事なのである。

ところで、クリスチャンである私としては、このレポートのなかで、キリスト教徒地区の場面が一番違和感を持った。巡礼者目当ての様々なみやげ物と思われる、けばけばしい品物の数々や、異教的な像など。これがキリスト教なら、ユダヤ人から偶像礼拝宗教と呼ばれてもしかたがない風景であった。

そして極め付きは、イエスの遺体が置かれたといわれる湿った台と、そこに接吻する巡礼者。ナレーションは言う、「ここがキリスト教との巡礼の終着地なのです。」

なんと、イエスの死体置き場が巡礼の終着だとは! もしそれがキリスト教ならば、それは単にイエスという教祖をもつ、ひとつの異教に過ぎない。しかし聖書のメッセージ、すなわち福音は全く違う。それは、イエスの復活に始まるのである。

だから、もし巡礼の旅というものがあるとするなら、終着地は墓ではない。復活のイエスと共に、ガリラヤを再び巡り、昇天の地、オリーブ山まで続かなければならない。さらに、イエスはやがて再びオリーブ山に戻られ、終には、神殿の丘に立たれるのであるから、あえて終着地を言うなら、それは、あのモスクのある丘がゴールなのだ。

ということは、結局、聖地は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教すべて同じだということになる。これは、クリスチャンも、神殿の丘争奪戦に加わるべきだということになるのだろうか。もちろん、そうではない。神殿の丘の主権は、クリスチャンでも、どんな人間のものでもなく、神ご自身のものである。そして、それを目に見える形にするのがメシアであり、クリスチャンは、そのメシアがイエスであると信じているものである。そして、メシアは、ご自身の主権はご自身の力で打ち立てられる。われわれ人間がじたばたしてどうなるものではない。まして宗教戦争など、断じてするべきではない。人間の本分は神を礼拝し、隣人を愛し、神の愛を伝えることである。

その意味で、旧市街について、「その主権はイスラエルでもパレスチナでもなく神である」とする案が出ていることは実に興味深いことである。この世から見れば、突飛な意見、あるいは逆転の発想であるが、神から見れば、永遠の昔から定まっている、あまりにも当然のことなのである。