やっとフレッツ ISDN

9月1日に、ようやくフレッツISDNが開通した。(ちなみに、これは月額4500円の定額で、プロバイダへの24時間接続(ISDNでのダイヤルアップ)ができるというもの。)

7月終わりに申し込んだので、まあまあの待ち時間というところか。

ネットワークは、本来いつでもつながっているはずのものだとは、よく言われてきたことだが、ダイヤルアップとはいえ、これでやっとインターネットの「一部」になった感じである。

もちろん、一般家庭で、しかもチャットやオンラインゲームをするわけでもない環境では、実際、毎月4500円に見合うほどインターネットを利用するのかという議論もある。しかし、ある人がいみじくも書いていたように、「これで、初めての場所に向かうタクシーで、はらはらしながら料金メーターを見ているような感じから解放される。」という心理的なメリットの大きさは、経験者の多くは賛同するところであろう。

考えようによっては、必要なときだけダイヤルアップする逐次接続と、常時接続の違いは、常日頃信仰を持ってはいないが、必要が生じるとお参りをしたりお布施をしたりする、いわゆる御利益信仰と、恒常的に一定の信仰を維持している、いわば信仰者との違いにも似ている。(かんり強引な比較だが・・・)

ただ、常時接続といえども、24時間ネットワーク上でやりとりしているわけではない。つなぎっぱなしで、何時間も放置してある場合さえあるだろう。同様に、信仰者といえども、始終お祈りしたり賛美しているわけではない。しかし、仮にデータのやりとりがなくとも、基本的に常に神とつながっているというのが信仰者のありかただろう。

ただ、フレッツの場合、メリットは、常時接続というより、使い放題の定額料金というところにある。もともとお金がかかるわけでもない信仰者にとって、常時データのやりとりがないならば、「つなぎっぱなし」の意味はあまりないのではないかという議論も当然おこる。そもそも、やりとりがないのにつながっているというのは、どういうことなのか?

これは、結局、ネットワークを、部外者として一時的に利用するのか、それとも、自分自身が恒常的にネットワークの構成員なのかという違いに帰する。その意味では、フレッツISDNは、あくまで使い放題のダイヤルアップであるから、ネットワークを外部から利用しているに過ぎない。やはり、独自ドメインを持ち、自分が利用するだけでなく、利用されるようにならなければ、ネットワークの構成員とは言えないのだ。

同様に、信仰者も、神に対して、外部者として、いわば自分の都合でデータのやりとりをするだけでは本物ではない。すなわち、自分が神に呼びかける以上に、神から呼びかけられなければならない。ネットワークのことばで言えば、神というサーバーを利用するクライアントとしてよりも、自らがサーバーである状態、これが真の信仰者のありかたであろう。

というわけで、フレッツも、ネットワークの世界では、まだほんの序の口というところか。

(やっぱり、独自ドメインが欲しい・・・・・でも、まだまだ高いし、手間もかかりますね。。。)