一般的に宗教体験というと、情報としての知識はやはり入り口であって、終局は神との合一あるいは即身成仏などと言って、体験的な知識が目標とされると思います。
ところが聖書(ヘブライ)的理解によれば、体験的合一はゴールではなく、ここでいうところの「共感」が終局とされます。この「共感」とは、一般的なことばでいえば愛であり、マルティン・ブーバーのことばを借りれば、「我と汝」の人格的関係とも呼べるでしょう。
要は、聖書では、合一あるいはひとつとなると言っても、同質のものの同一というのではなく、異質のもののが異質性を維持しつつ一体である状態を理想としているのです。
ですから、例えば男女の合一のしても、男女の異質性が完全に保たれたうえでの合一でなければ愛とは呼ばれません。同一のものの愛であれば、それは自愛であり、ナルシズムにすぎないからです。
というわけで、神との関係においても、「我は神なり」とか、「我は神に吸収され、我はもはや無い」といった類の神秘主義は、信仰の目標とはなり得ません。むしろ、神との愛の関係、すなわち共感とそこから生まれる能動的な働きかけこそが理想なのです。
エデンの園にいたアダムとエバは、神との共感という点において欠陥がありました。(あるいは生じました。)
禁断の木の実について、それを禁止令としては知っていても、禁止をする神の心を共有してはいませんでした。
それで、蛇にそそのかされると、「食べたら神のようになる」というその実を食べてしまったのです。
現代の大きな問題は、人々が共感できないということです。膨大な知識は共有できるのに共感はできないということ。これこそ現代の悲劇です。
知識、しなわち情報の共有はあくまで第一段階に過ぎません。情報化しきれない部分も含めて、全体を体験的に知るということが必要です。この点は、今日教育現場でも園重要性が指摘されています。
しかし、その体験的知識だけでも十分ではありません。ひとは同じような体験を持っているだけでは、相手と共感することはできません。皮膚感覚で相手と密着しても共感は生まれません。
なぜなら、これらのものはすべて相手との同質性を前提とし、あるいは目標としているからです。そして、何らかの原因で、その同質性の幻想が破れたときに、すさまじい失望や敵意が起こるのは、日常体験していることではないでしょうか。
むしろ、必要なのは、異質性を積極的に認め、受け入れ、さらに育成していくこと。それも単に他者と自分を分析して、情報のうえで異質性を理解するだけでなく、また皮膚感覚の交わりを求める中で逆に異質性にぶち当たるということにとどまらず、積極的に相手にむかって自分を差し出し、神の使いと格闘したヤコブのように、祝福を確信しつつ格闘しつづける中で、すなわち愛の労苦を通して実現していうのではないでしょうか。
アダムは失敗しました。私たちも何度も失敗します。しかしキリストは、愛の労苦の生涯を十字架の死によって完成し復活しました。天の神を「わが父」と呼び、「父とわれはひとつ」と断言したお方。しかも、その苦しみと血のにじむような祈りによって神と格闘し、なおかつ、「子」として従順を貫いたおかた。このおかたにこそ、父、および隣人との完全な共感を見ることができるのではないでしょうか。