聖書によれば、神は最初の人間アダム(男)を造り、エデンの園の管理をさせました。
その時アダムは、神が彼のところに連れてこられた動物に、それぞれ名前をつけたとあります。
名前をつけること、これが情報化の基本であることは言うまでもありません。
人は、現実の断面を切り出し、そこに名前を与えることによって、初めて、現実が単なるカオスから、認識と管理の可能な秩序あるものとなるのです。
例えば、雨という現象。雨の現実そのものは、「雨」という名詞に還元しつくせない、「名づけえぬもの」です。
しかし、これに「雨」という名を与え、さらに雨を雲の形状、気圧の状況などの要素に分解し、それぞれを定義し、数値化することによって、天気予報が可能になります。
それなくしては、人は、なまの現実の圧倒的な存在の前に、なすすべもなく立ち尽くすしかないのです。
人がことばを操る生き物であるということは、すなわち情報化によって生きるものだということに他なりません。
そして、聖書は、それが人間が創造されたはじめから定まっていたことだと述べているのです。
しかし、聖書は同時に、人間が情報化だけでは決して満足しないことも言っています。
というのは、アダムは動物に名前をつけてはみたものの、「ふさわしいパートナーは見つからなかった」−
すなわち、寂しかったのです。
そこで神は、アダムの骨を一本取り、それから女を造ったと書いてあります。そして、二人は性的に結ばれました。
聖書では、「知る」ということばで、男女の性的結合を表しています。
夫と妻の合一という直接的な経験によって、単に相手を情報として知る「知」を超えることができたのです。
このあたりに、世の諸宗教、特に密教や神秘主義にみられる、性体験の重視の源流がありそうです。
しかしながら、聖書がこれらの性重視型諸宗教と違うのは、性に代表される直接的な体験による知もまた不完全であることを述べているところです。
アダムとエバの合一は、後の堕落によって罪に犯される前の、いわば完全な合一でした。しかし彼らはそこで満足したでしょうか。
ちなみに、彼らは単に性のレベルで直接体験をしていただけではありません。神とも直接交流をしていたのです。
堕落をしてしまった後でさえ、あたかも人間同士で会話しているごとく、神と対話しています。
およそ、今日の神秘家があこがれるすべてを持っていたと言えます。
しかしそれでも彼らは完全に充足してはいませんでした。そしてついに誘惑に負け、禁断の木の実を食べてしまったのです。
この禁断の木の実とは、「善悪の知識の木」の実のことですか、この木の内容については立ち入りません。
また、神が、子の木の実を禁断の木の実とした理由や人が誘惑に負けてしまった理由についても今は置いておきます。
いずれにしてもはっきりしていることは、人は、この木の実を食べることについては、神と意見が食い違ってしまったということです。これを、共感の欠如と呼びましょう。神と自由に会話ができたのにもかかわらず、神と共感できなかった、これが堕落の出発点です。
これからわかることは、聖書によれば、ものごとを知るには、少なくとも3つの段階があるということです。
まず、情報という形で知る、次に体験的に、いわば皮膚感覚で知る、最後に共感するという段階です。
そして、三段階の順序が大切なのですが、また、その順序にこそ、聖書の特徴があると思われるのです。
つづく