アダムと情報化時代(その1)

情報化に伴う様々な利点と弊害について、さかんに議論されています。

ある現実についての情報は、それがどんなに詳細なものであっても、現実の一部の断面図にすぎないにもかかわらず、
人々がそれを現実そのものであるかのように錯覚してしまうことの危険、
すなわち、現実と仮想現実との区別がぼけてしまう現象については、もう何十年も前から言われてきたことでした。

例えば、近所で火事があったとして、確かに空が赤いのも見た、消防車のサイレンも聞いた、
しかし、翌日新聞にその火事についての記事が載っているのを見て、「ああ、本当にあれは火事だったんだ。」と納得する状況。
情報、特にマスメディアによるもののほうが、現実感が感じられる状況。これについて、マックルーハンでしたか、
「メッセージはマッサージである。」と語っていたように思います。

間接的な情報を通してでなければものを「知る」ことができない状況ー現実そのものから現実感が失われている状況。これは危機的なものです。

最近のある種の犯罪には、このような背景があるのではないでしょうか。世間を騒がす、もっと言えば、自分の起こした事件が大きく報道されることそのものが犯罪の動機であるような構造が感じられるのです。

これをある人は、単なる世間に対する復讐、あるいは歪んだ自己顕示欲の現れと呼びます。
しかしそこには、自分の存在自体が現実感を失い「透明化」してしまった人間が、マスコミの報道によって情報化された自分を見ることによってしか、存在感を感じられなくなってしまった状態があるのではないでしょうか。

現実を生の現実そのものとして知ることができず、それを客体化し、分析して情報化することでしか知ることができない状態、これをある伝統哲学では「分別知」と呼び、これにとらわれてはものごとの真相を知ることはできないと言われています。

現実を、その断片的な情報によってのみ知るのではなく、直接的、非情報的にものを知ること、
これを、「もののことはものに聞く」、「あるいは、山が山を見る」などと呼ばれているのだと思います。
(私は禅者ではないので、その道の方からは異論があるかもしれませんが。)

しかし一方で、ものごとを情報化すること抜きに、人が人であることができないのも事実です。

これは、聖書に拠れば、すでに最初の人間アダムにまでさかのぼることなのです。

続く