首相のいわゆる「神の国」発言で、いろいろと言われています。
前回、巨匠指揮者不在の時代という話をしましたが、一国の首相が、失言を恐れてメモを読む以外に自由に語れないと言う事態になってしまいました。
好きなことを言いたい放題というのも困りますが、首相がアナウンサーと同じでは、指揮をしない指揮者と同じで、リーダーとしての存在意義がなくなってしまいますね。まあ、それだけ失言に懲りたということなのでしょうか。
ところで、首相の釈明は、「天皇中心の神の国」という個所だけでなく、発言の全体を見てほしいということでしたので、一応全体を読もうと思ったのですが、一部省略の抜粋しか読めませんでした。
その範囲で見る限り、確かに全体の印象としては、論旨が一貫しておらず、解釈によってどうとでもとれるような発言だったように思います。
首相の釈明のとおり、主題はモラルの低下を憂い、日本の伝統文化を大事にした道徳教育が必要だというもので、一応すべての宗教を尊重しようというスタンスですから、必ずしも戦前の国家神道に戻そうという話ではないようです。
とはいえ、「神社を中心にして地域社会というのは栄えていくということを、そんな難しい話じゃなくて、みんなでもういっぺん、そのことを勇気を持ってしっかりやることが、21世紀がまた輝ける時代になることではないかなと思うんです。」などという個所は、とりようによっては、神社を超宗教的な役割を持つものとして活用していこうということになりますから、これでは国家神道と何が違うのかという議論も当然出てくるでしょう。
私の個人的な印象としては、首相は宗教問題を深く考えて発言したというよりは、道徳教育の必要性という持論を、その場の雰囲気に安易に合わせて展開したと思われ、その意味で軽率のそしりは免れないのではないでしょうか。
もっとも、宗教問題というのは、冷静に議論されることはまれで、大抵主観的な思い込みの応酬となってしまいます。
首相の、「宗教というのは自分の心に宿る文化なんですから。」という言葉も、ずいぶんと曖昧なもので、宗教とは心の中の主観的な問題なので、八百万の神だろうが仏様だろうが結局一緒だから仲良くやろうよという意味なのか、あるいは全く別の事を語っているのか判然としません。
また、首相の発言のなかにはありませんが、この種の話題では決まって登場する、「日本文化は多神教であり、一神教のように排他的でない。国家神道の時が異常だっただけだ云々」という主張も、「あれ、キリシタン弾圧ってどこの国の話だっけ?」という素朴な疑問の前には何の説得力を持ちません。
(え? キリシタンが排他的だったから皆殺しにしようとしただけだ?)
要は、宗教問題というのは慎重の上にも慎重でなければならないのであって、一国のリーダーならずとも政治家は言葉遣いの問題以上に、まじめに勉強して取り組んで欲しいものです。