オーケストラ指揮者の今昔

きのう図書館で読んだ本に、こんな内容の記事が載っていました。

昔は巨匠と呼ばれる個性的な指揮者がたくさんいたのに、今はどうしてそうでないのか?

その理由を、ある若手指揮者が説明しているくだりなのですが、彼によると・・・

昔のオーケストラ奏者は、楽器は上手に弾くが、理論などの学問的なことについては詳しくなかった。

そこへ、高度な学識(音楽史や様式学など)を身につけた指揮者が、いわばオーケストラの「先生」として来て、指導をした。

だから、指揮者の個性を主張することができたし、オーケストラも指揮者に従った。

しかし現代では、奏者ひとりひとりが高度な学問を身につけているのに対し、反対に指揮者は、コンクール対策で棒振りの練習ばかりになりがちで、指揮者とオ−ケストラの関係が変わってしまった。つまり、指揮者は指導者から調整役へと変貌したのだ。

だから、昔のようになるのは無理である・・・

だいたい、こんなような内容でした。

いわば、民主主義的土壌では、偉大なる独裁者は出現できないということなのでしょう。「芸術に民主主義はいらない。」ということはよく言われることです。

とはいえ、いまさら逆戻りをして、独裁者が衆愚政治をすれば良いというものでもないでしょう。民衆の教育水準を下げ、一部の人にエリート教育をすれば良いというのは、歴史の流れを無視した暴論です。

インターネットは、まさにこの歴史の流れを強力に推進する道具であると言えるでしょう。一部の集団が占有していた情報が開示され、いままで発言できなかった人々に情報発信の機会が与えられるネット社会では、カルト集団にならない限り、衆愚政治はしにくいのですから。

これ自体は、いいとも悪いとも言えないでしょうが、歴史の方向性であることは明白です。もちろん、反動もあるでしょう。しかし、一度公開されたものは、いくら情報操作して再び隠蔽しようとしても限度があります。

聖書のことばに、「隠されているもので、知られずにすむものはない。」というものがあります。

もちろん、短いタイムスパンで見れば、これは事実ではないでしょう。一生の間隠しとおせることもありますから。

しかし、歴史の方向性ということで言えば、これこそ厳粛な事実です。

科学の発見にしても、要するに今までは隠されていた法則が明るみにでることに他なりません。

そして、さらに厳粛なのは、物理法則のみならず、倫理的真実もまたしかりということです。

すなわち、善であれ悪であれ、隠れていたものは必ずいずれ明るみにでる、個人であれ国家であれ、必ず清算するときが来るということです。もちろん、それが100パーセント実現するのは、世の終わり、最後の審判の時でしょう。それまでは、隠れているものは残ります。しかし、方向性としては、隠れているものが明るみにだされるというのが原則であり、これに逆らうことは一時的には可能であっても、長期的には不可能なのです。

これが天地創造から最後の審判までの壮大なドラマであり、私たちの住んでいる世界です。

というわけで、巨匠不在の現代を嘆くことはやめ、しばし悠久の歴史に思いをはせている次第です。

(巨匠たちの演奏は、CDで楽しむだけでよしとしよう・・・・・)