礼拝メッセージ要約
2025年5月18日 「演技ではないアガぺその2」
ローマ書12章
9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
演技ではない本当のアガぺについてパウロは具体的に述べています。9節後半に続いて10節から13節までは一つの文で、いろいろな事柄がアガぺの属性として書かれています。10節はまず「お互いへの兄弟愛において家族のように愛し」(直訳)とあります。お互いへの兄弟愛とは、信徒の共同体内における信徒同士の親密な関係を表しています。同じ父を天に持つ私たちは、神の子どもとしてお互いに兄弟姉妹です。そしてその長子がキリストであることについては8章で詳しく学びました。
キリスト者の共同体(教会)は会社等の組織ではなく家族のようなものです。このことは良く知られていますが、会社と家族との違いをどう考えるのかが重要です。日本では、昔は家族的な経営が唱えられることも多く、例えば終身雇用制度・年功序列などの形に表れていました。今日では、そのような秩序は解体され、個別の能力主義が進んでいます。ただ、形はどのようなものであれ、利益を追求しなければならないのは当然です。家族的経営も個別能力主義も、結局はどちらが利益を上げられるのかという視点になってしまうのはやむを得ません。一方で家族の形態も変化しつつあります。家族関係が終身であることは変わらないものの、実際の生活形態は個人単位の側面が増えています。数値目標が設定できるような利益追求はなくても、昔は「家」の名誉というような価値に貢献するのが当然と思われていました。それが、今では、個人の価値追求の比重が高まっています。このように、会社組織も家族形態も流動的で、違いは血縁などの生物学的な要因や、法的枠組み(例えば人格と法人格)のような点なってきています。ですから、社会的観点から「家族」について考えるのには限界があります。
むしろローマ書の主旨から考えるべきでしょう。すなわち、組織とは(会社であれその他の集団であれ)律法によって成立しているという点です。家族にも律法(規則)があるではないかと言えばその通りです。家族も組織としての面があるのは当然です。しかし、ローマ書が語っているのは、キリストが長子であるところの霊的な家族です。それは律法によってではなく、聖霊によって成立しているというのがポイントです。キリストは律法の下にはいません。キリスト家族のルールに縛られるなどあり得ないことです。反対に、キリストご自身が律法を確立し、完成されたのですから。問題は私たちです。キリストの律法体系によって規定される「家族」の一員として、その律法の下にいるのでしょうか。そうではないということを、これまで徹底的に学んできています。私たちは、律法によってキリストと間接的につながっているのではありません。キリストと私たちは、相互内在によって直接的に結ばれているのです。これが原点であり、そこから離れて横のつながり(信徒どうしのつながり)を語ることはできません。
そのような「兄弟愛」がアガぺの一要素であり、それが演技ではないのは、「心から愛し合う」からだとパウロは言います。この部分の直訳は「家族愛で愛す」ですが、すでに兄弟愛について言われているものに、あらためて「家族愛」が加えられているのは不思議な感じもします。両者は一緒だと言えばそうですが、「家族愛」という言葉には「家族のような自然で親密な愛情」というニュアンスがあります。その所を「心から愛す」と訳したのでしょう。そもそも演技ではないアガぺについての話なのですから、自然な愛情が求められるのは当然です。しかし、家族の愛情は、遺伝的に備わった本能に由来する部分が大きいのですから、そうではない信徒同士が「自然に」そうなるのかは別問題です。古来、キリスト教世界には様々な分断や対立があり、とても「兄弟喧嘩」ではすまない事例がたくさんあります。アガぺが本物かどうかは、神学ではなく現実によって決まるのです。
10節後半は、この兄弟愛の実質についてです。直訳すると、「価値(を認めること)においては、互いに他の人に先んじ」となります。人は普通、尊敬をされること(価値を認められること)に喜びを感じます。「人から大切にされていればこそ、人を大切にできる」とはよく言われることでしょう。それは、この世界では事実でしょうが、アガぺの世界では異なります。自分のほうから、まず人を尊敬するのです。これは必ずしも、自分と他人を比較して、自分にない相手の長所を発見して褒めるということを意味しません。(新改訳の翻訳は、やや誤解を生む可能性があります)。そもそも、どこに「価値」を見出すのかが問題です。アガぺの世界では、すべての価値は神から恵みとして与えられます。その具体的な現われが「賜物」に他なりません。もちろん、自分自身に与えられている賜物を自覚し用いることは大切です。しかし、賜物は自分のためではなく他者のためにあります。もし、他者が自分の賜物を発揮するための手段になってしまっては、本末転倒でしょう。他者の価値を認識してこそ、それを活かすために自分の賜物を用いることができるのです。
11節から13節も、10節の延長で、アガぺの特質が簡潔に列挙されています。恵みの世界は単なる「受け身」ではありません。「生かされている」のは「生きている」ことでもあります。恵みの中で聖霊に生かされれば「勤勉においては後退しません」。あくまでも聖霊による以上、「霊において熱心である」のは必然です。その熱心は「主に仕えること」であるのは言うまでもありません。「希望にあっては喜び」、「艱難にあっては耐える」ことについては、すでに5章2節以下に書かれています。艱難は忍耐を、忍耐は練られた品性を、品性は希望を生み出します。それを知っているから私たちは大いに神を喜んでいるのです。
もちろん、そこには祈りがあります。「祈りにおいては持続的に」とあります。祈りは神との取引ではなく交わりですから、それが持続的であるのは当然です。ただ、この文脈は「キリストのからだ」におけるアガぺの働きですから、その祈りは所謂「とりなしの祈り」が中心になるでしょう。そのような祈りは、実践にもつながります。「聖徒の入用に協力し」とあります。聖徒とはキリスト者のことで、パウロも窮乏していた聖徒たちのために献金を集めていました。「旅人をもてなし」というのは、直訳すると「ホスピタリティーを追求し」となります。パウロに時代、使徒や預言者といった人々は、旅を続けながら各地の教会(キリスト者の共同体)を訪れ、教えたり励ましたりしていました。現代のように宿泊施設が整備されていたわけではありませんから、基本的に彼らを迎え入れるのは信徒の家でした。(イエス様の弟子たちを受け入れた人は、イエス様を受け入れたのと同様だという言葉が福音書にもあります)。もちろん、古代において、ホスピタリティーは大切な徳であったことは、旧約聖書の記述からもわかります。
ここでの注意点は、これらの徳自体は、必ずしもキリスト者特有のものではなく、ユダヤ教や当時のギリシャ世界にも見られたものです。徳を聖霊との関係抜きにして、単なる道徳としてのみ見るは不十分です。パウロは、このホスピタリティーを「追求し」という、追及の言葉から先に進んでいきます。この言葉は「外部の人を愛す」という意味です。この「外部の人」が何を指すかが問われているのです。その答えが続く14節あります。