礼拝メッセージ要約
2025年5月11日 「演技ではないアガぺ」
ローマ書12章
9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
私たちひとりひとりは、キリストのからだの各部分であり、それぞれに賜物が与えられています。その賜物の話に続いて、パウロは核心的な事柄を述べます。すなわち「愛」についてです。第一コリント書でも、12章から14章まで賜物について論じていますが、その中心(13章)に、有名な愛についての言葉が記されています。これは、人々が賜物という手段と愛という目的を取り違えて、本末転倒になってしまわないように書かれているのでしょう。ここで9節以下には、この「愛」についての具体的な諸相が書かれています。
「愛」が聖書の中心メッセージであることは言うまでもありませんが、問題は、この「愛」という言葉そのものの意味にあります。周知のことがらですが、今日の聖書で「愛」と訳されている言葉は、昔は別の日本語に訳されていました。というのは、この言葉の意味はそもそも訳しにくいものだったからです。例えば、仏教用語を援用して「慈悲」としたり、「御大切」と訳したりするなど試みられました。当初「愛」には肯定的な意味がなかったからです。近代になってからは諸事情で「愛」が使われるようになりましたが、これが様々な混乱をもたらすことになったのです。というのは、一般に人は、「愛」という言葉を聞いた瞬間に、ある種の固定観念を持つからです。
聖書に登場する「愛」に関連した言葉は複数あります。「親子の愛」「兄弟・友情の愛」「男女や美への愛」そして「アガぺ」などがあり、それぞれ別の単語が使われています。そもそも別のものを「愛」でまとめているわけです。まとめるのは共通項があるからでしょう。それは、「結びつける働き」と言えるでしょう。日本語には古来「結び」という言葉もあります。ですから、それぞれ「親子の結び」「友の結び」「男女の結び」と訳した方がわかりやすいでしょう。そこに登場するのが「アガぺ」です。これは神の愛と呼ばれることもありますが、別に神に限ることなく、私たち人間同士にも求められているものです。一応これも、何等かの「結び」であることは予想できますが、いったいそれが何なのかが問題です。そのため、私たちは一旦「愛」という言葉を離れて聖書を読むことが必要です。しばらくは、「アガぺ」という言葉と使って、それが何を意味しているのかをパウロから学んでいくことになります。
まず9節です。「愛には偽りがあってはならない」という文は、直訳すると「アガぺ、演技ではない」です。(動詞のない直截的な文です)。となると、まずは「演技はアガぺではない」ことがわかります。しかし、演技にもいろいろあり、何を指しているのかが問題となります。それが以下の文から、次第に明らかになっていきます。(第一コリントにも似たような表現があります)。9節は13節までが一つの文で、「悪を憎み」以下が、「演技ではないアガぺ」を修飾しています。(命令文が並んでいるのではありません)。まず取り上げられているのは、「悪を憎み善に親しむ」ことです。「愛」についての一般論として見ると、「愛しているなら何でもありとはならない。良いものは良い、悪いものは悪いとしなさい」という勧めとなるでしょう。それはそうなのですが、演技ではないアガぺの特質を語っているのですから、もう少し深く考える必要があります。
ここで「憎み」というのは、心底嫌うという強い言葉です。また「親しむ」というのは「追及する」という言葉です。そこには、強い方向性が感じられます。(悪から遠ざかり善に近づくという方向性)。すなわち、アガぺではない演技とは、この方向性を欠いているものだということです。問題は、ここで「善」と「悪」は何なのかということでしょう。原文ではそれぞれ定冠詞がついているので、漠然とした良し悪しのことではありません。まず問題となるのは、「善悪の知識の木」との関係です。これまで、この木と律法との関係を見てきました。それは良いものであり、社会の維持・成長には必須のものです。しかし、その律法を通して罪は増長し、神から離れてしまうため、「いのちの木の実」を食べることができず「いのち」を失ってしまうのです。従って、ここでの「悪を憎み云々」が律法主義に逆行したのでは意味がありません。
それでは、律法主義ではない「善」「悪」は何を指しているのでしょうか。定冠詞付きの特定の善悪ですから、究極的には神と悪魔を(少なくともその方向を)指しているでしょう。聖霊の導きがその方向であることに異存はないのですが、それがどう「演技」と関係しているのでしょうか。まず忘れてはならないのは、これは「キリストのからだ」に関しての話だということです。からだの各部分が働く基盤が「アガぺ」であり、それは演技ではないというのが出発点です。キリストのからだは言うまでもなく「聖霊の宮」でもありますから、そのための働きである「アガぺ」が神を志向しているのは当然でしょう。反対に、キリストのからだの中での「偽アガぺ(演技)」は、賜物の活用と言っても、この「聖霊の働き」を欠いているものです。それは律法主義とも言えますが、具体的には、キリストのからだを機械的・組織的にとらえることです。宗教団体と言ってもいいでしょう。その成長を第一に考え、そのための手段が各信徒の活動となります。当然、各信徒(諸部分)は協調しなければならず、そこにいわゆる「愛」(しばしば無償の奉仕)が要求されます。これは律法による組織の運営に協力するということなのですが、「自分がその役割を果たすこと」が愛であると思うのです。しかし、この「役割を果たす」というのは、外形的な作業となっていき、いきつくところは演技とその限界なのです。
ただし、それは必ずしも、心にもないことを形だけ行っていたというのではありません。それはまさにパウロ自身が律法主義の道を突き進んでいた時の話でもあるのです。もしだれかが彼に、「あなたの信仰は単なる演技だ」と言ったら彼は猛反発したでしょう。しかし、神を求めていたはずが、その反対になってしまうのが律法主義です。彼は神の義を知らず人の義を追い求めていたのですが、彼自身はそれに気づきませんでした。ですから、彼の心と行動が別だったというよりも、彼が心から実践していたこと自体が本来の姿から外れていたために、それは真実のものとは認められず、たんなる信仰の演技とみなされたのです。それをキリストのからだに持ち込んではなりません。
そしてこのことが、神と人だけではなく、人と人との関係にも言えるというのが、ここでの論点です。他人のためにする行動が真実なのか偽善(すなわち自己満足や見栄)なのかということはよく言われるでしょう。つまり動機が問題にされるわけです。動機が不純ならしない方がいいと言う人もいれば、たとえ不純でもした方がいいという人もいます。しかしそれはおそらくケースバイケースでしょう。ローマ書で語っているのは「アガぺ」です。そこで大切なのは、自分自身の心を覗いて動機を精査する場合に、それが聖霊の導きなのか律法主義なのかを見極めることです。「アガぺ」は、いわゆる愛の一形態というよりも、聖霊の発動です。それぬきの行動は、いかに愛に満ちているようでも、それは人の行動、すなわち演技に終わってしまうのです。