礼拝メッセージ要約

202554日 「キリストのからだ」

 

ローマ書12

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、 

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。 

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。 

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。 

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

 

パウロは「キリストのからだ」そのものには深入りせず、ここでは各論を述べています。すなわち、異なった賜物のいくつかを挙げています。第一コリント書にも類似の箇所がありますが、具体的な内容は部分的に異なっています。ですから、いずれの書のリストも完全なものではなく、それぞれの状況で必要なものだけが取り上げられていると考えられます。いずれにしても、賜物は恵みであって、自分の能力ではないことが前提です。

 

まず、預言についてです。「その信仰に応じて」預言せよと注意されています。この部分は一見すると、預言する人は、自分の信仰の程度に応じて預言せよ」というように読めます。つまり、信仰の強い人は大きな預言をし、弱い人は小さな預言をするという方向です。そこでの大きな預言とは、例えば国の明暗を左右するような内容で、小さな預言とは、例えば、個人の気持ちに関する内容という感じでしょう。しかしパウロの言葉はニュアンスが異なります。直訳すると、信仰の「アナロギア」に応じてという表現です。アナロギアは、ロゴス(道理)に正しく対応したという意味です。また、信仰には定冠詞がついていますから、教会(キリストのからだ)に与えられている正しい信仰を指すと考えられます。当然ローマ書の内容に対応していることが要求されます。もちろん、どんな賜物も同様のことが要求されますが、特に預言の場合にだけ書かれているのは、預言に特別な重要性が与えられていたからでしょう。

 

繰り返し強調されているとおり、「預言」や「予言」とは異なります。未来を予測する予言である場合もありますが、基本的な意味は、神から預かった言葉です。また、未来を語る場合でも、「幸いの預言は成就して初めて本物であると証明され」、「災いの預言は警告なので、取り消される場合もある」というような複雑な事情があります。いずれにしても、「神のことば」は最重要なテーマですから慎重に扱う必要があります。まずは、パウロ当時(ローマ書執筆の時代)の事情を把握するべきでしょう。

 

まず留意するポイントです。当時はまだ新約聖書はまとまっていませんでした。福音書の元となるものや、パウロの初期の手紙が、それぞれの地域で読まれていて、共通の文書の形ではなかったのです。その代わりに、使徒たちが各地を巡回し、使徒の教えという形で福音が伝えられていました。さらに、教師たちが、その福音をもとに、いろいろと教えていたようです。そして、預言者たちも使徒とともに活動していたと考えられます。使徒と預言者の関係は微妙です。使徒の教えは継続性の高い内容で、預言は個別の事案に関係している内容という違いがあるのかもしれません。ですから、信仰の正しい道理に応じて預言するとは、使徒の教えに沿った内容で預言することでしょう。もちろん、今日は、新約聖書がありますから、聖書的に預言するのですが、この「聖書的」が何を意味するのかが問われているわけです。結局、「聖書的」とは、聖霊に正しく導かれることと同じことになるでしょう。(聖書は神の霊感(すなわち聖霊)によって書かれているのですから、これは当然のことです)。

 

7節8節には別の賜物が語られています。まず「奉仕」「教え」「勧め」です。奉仕とは給仕という意味です。教会において実際的な事柄にかかわる奉仕で、集会の運営に必要なことを行っていたようです。「教え」は文字通り教えることです。他の箇所では「教師」の順番が早くなっていますが、ここでは「奉仕」に続いています。いずれにしても、順序は優劣ではなく内容の違いですから、問題にすることではないでしょう。「勧め」は、なぐさめや励ましのことで、「なぐさめ主」である聖霊の働きが現れる場です。以上の三つの賜物については、どのようにその賜物を用いるべきなどの注意点は何も書かれておらず、単に奉仕なら奉仕しなさいとなっています。おそらく、与えられている賜物を用いることに専心しなさいということでしょう。もっとも、これらのことを実践するには、単に一生懸命行えば十分ということはありません。何をするにしても、「キリストのからだ」の徳を高めることに役立つことが必要です。そのためには、聖霊の導きを受けなければならないことはもちろん、預言同様、福音との整合性が求められます。

 

続いてパウロは、「分け与える人」「指導する人」「慈善を行う人」に言及しています。「分け与える」とは施しのこと、「指導する」と訳されている言葉は、援助するという意味もあるので、おそらくここではその意味、そして「慈善を行う」はその通りの意味です。いずれも、援助活動を意味していますが、それぞれの違いや詳細については明らかではありません。いずれにしても、困窮者、身寄りのない人、被災者への援助などが積極的に行われていました。もちろん、これらは今日でも重要ですが、当時は今のような社会保障制度は整っていませんでしたから、なおさらその重要性は際立っていたでしょう。これらのことを、惜しまず、熱心に、喜んで行うように勧められています。このような注意が与えられているのは、ローマにあって、その重要性を強調する必要があったからかもしれません。

 

パウロはこのような賜物に言及していますが、前にも触れたように、コリント書では、ここに登場しない「異言」「異言の解き明かし」「癒し」「力ある業」が書かれています。特に異言と預言については多くの言葉で論じていて、重要なテーマであったことが伺われます。今日、これらのいわば「超自然的」な事柄を「カリスマ」と呼び強調する人たちがいます。しかし、カリスマとは賜物のことですから、パウロがここで書いているように、そこに自然と超自然という区別はありません。給仕をするのも癒しを行うのも恵みの分与であり、聖書を教えるのも異言を語るのもカリスマの異なった現れです。今日、自然と超自然を分ける傾向があるのは、迷信やカルトを警戒し、科学的論理的思考を大切にするという、ある意味では健全な考えが土台にあるからでしょう。その上で、なお超自然的なことがあれば、それは神の奇跡であると考えるのです。確かに迷信やカルトは避けなければなりません。ただ、自然は機械的・運命的に定まっていて、超自然は神がそれを変更するものだという考えは、やや偏っています。自然も神のことばによって成立しているのですから、神から自立した宇宙のようなものではありません。むしろ、自然の現象とは起こる確率が高い現象のことで、超自然現象とは確立が低い現象であると見るほうがよいでしょう。そして、そのどちらも神のことばによって成立しているのです。私たちは、そのことばに耳を傾け、与えられている賜物を把握し、それを用いて、キリストのからだの一部として成長するのです。