礼拝メッセージ要約
2025年4月27日 「慎み深い考え方」
ローマ書12章
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
3節に進みます。パウロはここから各論に入っていきます。そこで、改めて彼の言葉は「自分に与えられた恵みによる」ものだと言います。この言葉の背景には、信徒の共同体(いわゆる教会)の中での彼の地位(立場)という問題があります。ローマ書の前に書かれた手紙でも、パウロの使徒職に疑問を呈する人たちに対しての弁明が書かれています。パウロは、ペテロたちとは異なり、十字架以前のイエス様とは接点がありませんでした。いわゆる、人間的に使徒職を継承したのではなく、キリストから直接召命を受けたのです。これは、いくら弁明しても、納得しない人はいるでしょう。あとは、論より証拠の世界であり、実質的な聖霊の働きによって実現する「実」による他はありません。ポイントは、その「聖霊の働き」が、徹頭徹尾「神の恵み」であるということです。そこに少しでも人間の業が介入してしまえば、それは最早福音ではありません。ですから、ここからの各論も、パウロ自身が神の恵みによって語るように、それを聞く人も、神の恵みによって聞くことが求められているのです。
パウロが第一に語るのは、「思いあがってはならない」ということです。もちろん、一般的な「謙遜の勧め」でもありますが、もう少し注意深く読むことが必要です。まず直訳します。「当然考えるべきことを超えて考えないで、適切に考えるように考えなさい」という変わった文です。ここに「考える」という単語が4回繰り返されています。この「考える」は、8章の、「肉の思い」と「御霊の思い」にも使われていたキーワードで、そこでも取り上げましたが、単なる「考え」以上の内容を持っています。内面にある考えが行動の方向性を決めるような意味で、「志向」と表現する方が良いかもしれません。「肉の思い」は「生まれつきの志向性」で、「御霊の思い」は「聖霊による志向性」を意味しますから、ここでの「思うべき限度を超えた思い」とは、単なる自信過剰ではなく、聖霊の働きから外れた、生まれつきの指向に基づく、勝手な判断と行動」を指すと言えるでしょう。対して、適切な「志向」を志向するとは、生まれつきの志向ではなく、聖霊による志向に基づいて判断し行動するということになるでしょう。
もちろん、「生まれつきの志向」の中には、いわゆる傲慢が含まれています。傲慢は破滅に至るという一般論が重要なのは言うまでもありません。「聖霊の働き」が話題になると、しばしば「霊的な傲慢(思い上がり)」が問題になるのもよく知られていることです。そのような場合に、どんな霊的な出来事も、完全に神の恵みによるのだという原点が忘れられてはなりません。この「霊的傲慢」から派生する様々な問題は、コリント書などでも取り上げられていますから、決して軽視することは許されないでしょう。
ただ、それだけを見ると、いわゆる「霊的事柄」が激しく現象していない環境では、話が無関係に見えてしまうきらいがあります。多くの人は、思い上がるよりも、むしろ霊的な弱者であることを悩むのではないでしょうか。ですから、やはりこれはローマ書のテーマに沿って理解すること(肉の志向と聖霊の志向の対立)が大切でしょう。聖霊の志向がすなわち「慎み深い考え方」と訳されている「適切な志向」ですが、それの説明として、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて」と言われています。「信仰の量りに応じた適切な志向」とはどういうことでしょうか? まず明らかなのは、「信仰の量り」は「それぞれに分け与えられた」ものなので、それは各人異なるということです。聖霊の志向は単一ではなく、各人ごとに違う形で現れます。そして、それは「分け与えられた(分与された)」ものでもあります。各人がばらばらに異なるものを持つのではなく、元来は聖霊にあっては一つであるものが、各人に分与されているのです。イメージとしては、使徒の働き冒頭で、聖霊が「別れた舌」のように各人に降ってこられた感じでしょう。
問題は「信仰の量り」です。聖書で「信仰」は複数の意味で使われています。まず救いの土台としての信仰で、ローマ書のテーマでもあります。すなわち「キリスト信仰」で、「キリストご自身の真実」と、そのキリストに自分を委ねる人の有様」の両方を含んだものです。この意味での信仰に「量り」が存在しないのは言うまでもありません。しかし、それ以外の意味でも「信仰」という言葉は使われています。ローマ書でも14章以下に、「信仰の強い人や弱い人」の話が登場します。他にも、信仰の成長についての勧めもあります。これらは、キリストと信徒との具体的な結びつきの有様に関するもので、救いの土台とは異なります。また、「御霊の賜物」の一つとしての信仰もあり、注意が必要でしょう。あえてまとめるなら、「根底にあるキリスト信仰の、日常生活における表現形態」と言えるかもしれません。もちろんそれは、数値的に測れるような「量」ではなく、質や有様にかかわることです。いずれにしても、それは各自に対して、独特な形で分与されているものです。
この「図り」については、からだを構成している様々な器官の比喩で説明しています。ただ、ここでは簡単に一言で触れているだけです。このテーマに関しては第一コリント書が詳しく語っています。そこには、「比較的に弱いと見られる器官がなくてはならないものである」という言葉があります。見かけ上では、大小、強弱などの「量り」があることを認めた上で、そのような違いにも関わらず、全てが必要なものであることが強調されています。このこと自体は、今日の人体に関する知見からしても分かりやすい話でしょう。ただしこれが「分かりやすい」のは、第三者の立場から「からだ」を見ている限りでしょう。しかし、私たち一人ひとりは「キリストのからだ」の外にいるのではなく、その一部分なのですから、外部からキリストのからだを見渡す視点に立つことはできません。自分と他の諸器官との比較に走ってしまうのもやむを得ないところがあります。問題は、その比較が有益な関係のために役立つものなのか、それとも、優越感や劣等感を引き起こすことになるのかという点です。
ここに、私たちは自分の「指向」がどのようなものであるのかが問われることになります。思考は「量り」に即したものであるべきなのですが、具体的な「量り」の内容(すなわち、自分にはどのような賜物があるのかという問題)の前に、すべての前提が「恵み」であることを真に認めることが必要です。恵みに対立するのは所謂「働き」ですが、ローマ書でここまで学んできたように、それはすべての行動を指すのではありません。(恵みに留まるのは、無為無策で生きるということではありません)。ここでの「行い」とは「律法の行い」すなわち律法主義のことです。キリストのからだについて読む時に、律法主義から自由であることが求められるのです。