礼拝メッセージ要約
2025年4月20日 「変容とイースター」
ローマ書12章
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
前回、2節から「変容」というキーワードについて学びました。その際、この言葉は、さなぎが蝶になるようなタイプの変化を指していると言いました。今回は、この「変容」とイースターとの関係について学びます。キリストの復活を祝うイースターですが、「復活」と一口に言っても、そこには色々な意味があります。その中に「変容」もあるのですが、できるだけその全体像をつかんでいきたいと思います。
まず「出来事としての復活」です。これは、4福音書にそれぞれ描かれていますが、詳細は異なっていて、それらを結びつける試みがなされてきました。共通しているのは、イエス様が葬られた墓が、3日目の朝には空になっていたという部分です。その出来事をどう解釈するかについては、古来いろいろと語られてきましたが、重要なのは、イエス様の遺体を崇めるということが不可能だという点です。このことは、ピラミッドやミイラに見られる古代エジプトの風習を筆頭に、あらゆる地域や形式で行われてきました。もちろん、墓の代わりに銅像や、神社などの宗教施設がその代わりをなすこともあります。それらの背景にあるのは、死者の永生に対する憧れや怖れや信仰であり、現代の「死んだら完全に消滅する」という唯物的世界観とは異なります。(因みに、唯物的世界では、墓は単なる記念物ですから、それが空であるかどうかは無意味です。デジタル化が進んでいるのもそのためでしょう)。
復活がある以上、この唯物的な世界観に留まることは不可能のように見えます。しかし、復活がある種の「死者の生き返り」であり、不老不死の獲得であるというのならば、必ずしも、唯物的世界観を放棄する必要はありません。そして、それはまさに、現代において、遺伝子工学やその他の科学技術によって追求していることなのです。また、この世界観を前提とした宗教もあります。すなわち、今の時代と後の時代に分けて、そのどちらも唯物的な世界を想定した上で、ある種の人々(選民)は、生き返って後の時代に入るという世界観です。言うまでもなく、パリサイ派などの黙示思想的な世界観や、ある種のキリスト教派(いわゆる異端と呼ばれているものも含めて)などもそうですし、他にも類似の宗教はいろいろとあるでしょう。もちろん、後の世時代を否定する、現世オンリーの唯物世界観とは違うので宗教と見做されるのですが、歴史を水平の方向だけで見るという点がポイントです。因みに、唯物的というと、神の存在自体を否定しているように思われますが、世界という被造物のあり方を問題にしているのですから、ユダヤ教やキリスト教であっても可能なわけです。
このような水平方向ではなく、垂直方向に考える世界観もあります。いわゆる、この世と天国を対比する世界観です。この場合、天国は歴史上の未来ではなく、今すでにここにあります。ですから、この時代の中で、どのようにしたら天国に入れるのかが問題となります。この場合、しばしば復活は天国に入ることと同一視されます。特に、死後に天国に入る場合は、この世において、肉体は死に、霊魂は天国で生きるというイメージになるでしょう。このような宗教や習俗も当然たくさんあり、キリスト教の世界でも普通に見られます。その場合、イエス様の墓が空であったこと自体は、キリストの特殊性の証明としての意味になるでしょう。墓が空になることと天に入ることがイコールでは、私たちの場合(墓が空にならない場合)問題が生じてしまいます。初代教会が空の墓を伝えてきたのは、からだのよみがえりが重要だからです。霊魂の分離という、ギリシャ世界の一般的な世界観とは違うことを強調してきたのです。つまり、単なる垂直方向の救いではないということです。
このように、水平方向と垂直方向のどちらに「神の国」を見るのかという問題があります。また、その両者を合体させたものもあるので複雑です。その場合、今は死んで霊魂が天国に行き、再臨の時には肉体が復活して両者が一つとなると考えます。もちろん、聖書の様々な記述を総合すると、そのようにも言えるでしょう。しかし、私たちにとって急務なのは、そのような世界観も問題よりも、私たち自身の「あり方」でしょう。つまり、自分がどこにいるかではなく、自分が何なのかが最重要課題です。「己を知れ」とは、ギリシャの哲人や仏教の教えだけではなく、私たち自身の問題です。アダムとエバの堕落は、遠い歴史上ではなく、今、ここにいる自分自身の問題です。この自分のあり方そのものが問われているのですから、今まで読んできたように、私たちの「変容」そのものに集中しなければなりません。
もちろん、後の世や天国への「移動」(という形の復活)を求めている人も、今のままでそこに行けるとは思わないでしょう。行けるための条件を当然考えます。そして、道はふたつに分かれます。自力の道と他力の道です。例えば、ユダヤ教は自力でキリスト教は他力のように言われます。しかし、このような発想は本末転倒でしょう。つまり、移動が目的で、自分のあり方がその手段・条件になるという発想です。その場合、復活は単なる移動の中間点になってしまいます。確かに、アダムとエバの場合も、結果的にエデンの園から追放されたということですから、エデンの園に帰りたいという「移動の願望」があるのは当然です。しかし、エデンの園に帰りたいのは何故かが肝心でしょう。神に帰りたいのか、食べ放題の環境が恋しいだけなのかということです。神はイスラエルに繰り返し「わたしのもとに帰れ」と語られました。彼らが、いわゆる約束の地(その一部)にいる時でさえ、そのように言われたのです。言うまでもなく、彼らの生き方が間違っていたからです。
このイスラエルの教訓をローマ書から私たちは学んでいます。彼らが躓いたのは、無神論で世俗的だったからでも、単にご利益宗教であったからでもありません。彼らの律法主義が聖霊の働きを妨げたからです。聖霊だけが真の「変容」を生み出します。外的ではなく本質的なあり方を変えていくのです。外形というと、いわゆる肉体の状況も考えるでしょう。また、内的なことと言えば心のあり方が問われるでしょう。しかし、そのような区分は不必要だということを「空の墓」は教えています。外と中を肉体と心で見るのではなく、律法と聖霊という対比で見ることをローマ書は教えています。繰り返しになりますが、律法は社会の維持に不可欠で、それは移り変わりなす。対して、聖霊は「いのち」に不可欠であり、それも自由に働きます。アダムとエバは、禁断の木の実を食べたとき、善悪を規定する律法の世界に入りました。同時に、いのちの木の実が食べられなくなったのです。
しかし今やキリストは来られ、聖霊によって私たちにいのちを与え、変容に導かれたのです。