礼拝メッセージ要約
2025年4月13日 「変容」
ローマ書12章
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
2節を読んでいきます。これは、1節の内容を展開したもので、別の話をしているわけではありません。1節は、礼拝者としての立ち位置を示しています。奨励であって命令ではありません。恵みの中に生きることの実質です。2節には命令文がありますが、1節の展開なので、1節の内容の具体的な「必然」を語っていると考えられます。2節全体は、ざっくり読んでも分かる内容ではあります。「御心を知るために、この世に合わせるのではなく、(クリスチャンらしい)新しい考え方をする自分になりなさい」というような感じでしょう。それはそうなのですが、パウロの言葉は、もう少し丁寧に読む必要があります。
まず「この世と調子を合わせてはいけません」という部分です。ここで「この世」と言われているのは、「この時代・世界(アイオーン)」のことで、黙示思想の用語です。悪に支配されている現在を指します。対比されるのは「後の世」で、神に支配されている、来るべき時代・世界のことです。黙示思想では、この両者の間に破滅的な艱難があると考えられています。パウロもこの言葉を用い、現在の罪深い世の中で如何に生きるかを問題にしています。「この世と調子を合わせてはいけない」というのは意訳です。直訳すると、「このアイオーン(時代)において、(それと)同じかたちにされていてはいけない」という内容です。ここでのキーワードは「かたち」です。
この言葉は、「外形」のことで、社会的なスタンダード、体裁を指しています。それ自体には悪い意味はなく、日常生活では「常識」にかなったあり方と言えます。では、「それと同じにされていてはならない」とは、非常識な行動をとれという意味でしょうか? もちろん、そのような話ではありません。(このテーマは後の章で扱われます)。この「かたち(現代の「スキーム」の原語)」は、現代の仕組みですが、それは時代や状況によって変わるものです。短期的には流行であり、長期的には伝統です。流行に流されはいけないというのは分かりやすいでしょう。伝統については、流されるというよりも、それに縛られるということでしょう。いずれにしても、この世の有様は過ぎ去るのですから、それに合わせていては、一緒に過ぎ去ってしまうでしょう。
それでは「流されない」生き方とは、流れに反して何かに固執することでしょうか? もちろん、そうではありません。自分も変わる必要があります。「思いの一新によって自分を変える」とありますが、直訳すると、「思考の新しさにおいて、変容され続けなさい」という内容です。「この世」に「思考の新しさ」が対比されており、「同じかたちにされる」に「かたちが変えられる」が対比されています。通常「この世」に対比されるのは「後の世」なのに、ここでは「思考の新しさ」になっています。パウロは黙示思想の言葉を使いながらも、将来ではなく今すでに実現している「新しさ」を語ります。「後の世」すなわち「神の国」は、すでに現在に侵入しており、それは潜在的に存在しているだけではなく、部分的には顕在化もしています。現在(この世)の中にありながら、「潜在的な神の国」が一歩一歩顕在化しているのです。その顕在化の基本が「いや、むしろ」に続く文です。神の御心、良いこと、ふさわしいこと、完全なこと等が何なのかというのは、潜在的な神の国の実態で、日常的には見えないものです。(単に良いことではなく、完全なこと、神に属することです)。
通常では知ることのできないこれらを「わきまえ知るため」とあります。この「わきまえ」の原語は「本物かどうかをテストする」という意味です。世の中には、「これが御心だ」「これが良いことだ」と言われるものはたくさんありますが、それが本物かどうかを見分けることは容易ではありません。目に見える偽物と、一見隠れている本物があるということです。この本物をあぶりだすことが目的となります。繰り返しになりますが、このことは、現在の中に未来(後の世)がすでに侵入しているという福音の本質からくるものです。この隠れた本物を認識することが、「思考の一新」です。この一新という新しさは、質的な新しさを意味することばです。また「思い」と訳されているのは、認識や思考を意味する言葉ですから、それらが、今までとは違う新しいものになっていることを意味します。私たちは、物理的には「今の世」にありながら、この「新しい認識世界」に生きているのです。パウロは別の手紙で、「私たちにはキリストの思いがある」と語っていますが、同じことを語っていると考えられます。従って、今の世に対して、キリストの認識世界が対比されており、後者は、後の世に至っては、認識世界が文字通り具現化されるという福音の構図が語られていることになります。
そして、その具現化は、今すでに始まっていて、私たちはそこに参与しています。その参与に必要なのが、「変容され続けなさい(自分を変えなさいの原語)」と言われていることです。この「自分の変容」を通してでないと、本物をわきまえ知ることはできないのです。「世に流されている限り御心はわからない。まず自分が変えられる必要がある」ということです。この「変わる」ことが「変容」と言われているのには意味があります。この言葉は、さなぎが蝶になるようなタイプの変化を指しています。「かたち」には違いありませんが、単なる外形に留まらない、質的な飛躍を伴う変化です。このような「変化」と、この世にある形に合わせていく変化が対比されているのです。キリストにつながると、そこには大きな質的変化が起こります。ただし、ここでは「変容され続けない」となっていますから、それは一時のことではなく日々継続されるべきことです。ローマ書ではすでに、古い人と新しい人という対比が語られていますが、ここでは、その「新しい人」も、日々新しくされ続けることが求められています。私たちはまだ途上にいるのですから、ある意味それは当然でしょう。ただし、その新しさは質的なものでなければなりません。言い換えると、単に経験値を積み上げたり、スキルを上げたりするだけではない、質的な変化です。要するに、キリストの似姿に変えられるという方向です。
この「変容」は、もちろん自分でできることではありません。受動態(される)と訳した方が良い文です。(原文は、文法上は自分を変えるとも解せますが、ローマ書の内容から言って、受動態と読むべきでしょう)。私たちを変えるのは言うまでもなく聖霊です。8章では、「肉の思いは死であり、御霊による思いはいのちと平安である」とありますが、それと同じことがここでも語られているのです。(8章では「思い」を「指向」と訳しましたが、実質的に同じことです)。私たちは、自分を聖霊の働きにゆだねることによってのみ、質的な変容を体験します。そして、それによって隠れていた御心が顕在化するのです。「御国が来ますように」という祈りの具現化です。