礼拝メッセージ要約
2025年4月6日 「礼拝とは」
ローマ書12章
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
12章からは実践的なことがらを扱います。もっとも、11章までが全て理論的な話だったかと言えばそんなことはありません。4章では「信仰」の具体的な内実が語られましたし、6章の「バプテスマ」に関しては、「しもべ」としての歩みが勧告されています。12章以降は、「しもべ」としての歩みの具体的な展開が語られているのです。「理論(11章まで)と実践(12章以降)」を、「神学と道徳」のように分けてはならず、一体のものとして読むことが大切です。つまり、常に聖霊の光のもとで、律法を超えた立場から読むのです。
12章1節は、この「霊的な実践」を要約しています。まず注意すべきなのは、これはパウロの「お願い」であって「命令」ではないということです。律法の規定ではありません。ここで「お願い」と訳されている言葉は、「自分のそばに呼んで励まし慰める」というような意味です。パウロは人々を自分と同様の「霊的な現実」に導き入れ、励まし、助け、養おうとしているのです。この「霊的な現実」を、ここでは「神のあわれみ(すなわち恵み)」と呼んでいます。「神のあわれみのゆえに」とは、実質的に「神の恵みによって救われた現実に基づいて」と理解することができるでしょう。すなわち、ここまでパウロが詳細に論じてきた内容を前提としてということです。また、この「お願い」の対象は「兄弟たち」となっていますが、これは言うまでもなく、キリストとつながったすべての人」を指しています。ですから、この「お願い」は道徳一般や規則ではなく、霊的な交わりの現実を言葉にしたものなのです。
パウロはまず、ユダヤ教や宗教一般で使われる用語を使います。すなわち、「供え物(生贄、捧げもの)」です。モーセ律法では、さまざまな供え物(動物のいけにえやその他の捧げもの)が規定されていました。ひとつ注意点があります。古代の諸宗教では広く「生贄」が捧げられていましたが、中には「人身御供」(人間を生贄にすること)もありました。ユダヤ教ではこれを厳しく禁じていますが、その根拠を「イサクの出来事」(アブラハムが神に命に従い、イサクを捧げようとした際、最終的には神がそれを止めた出来事)に求めています。通常これは、アブラハムの従順の証として読まれますが、生贄に人間が含まれないという規定でもあるのです。それだけではありません。律法では、第一子を神に捧げられた者と規定していますが、親はこの子を必ず神から買い戻さなければなりません。神への生贄という概念が前提となった上で、人のいのちは地上に留めておかなければならないということです。
このような背景のもとで、パウロは私たちの「からだ」を捧げるように勧めています。もちろん、「生きた」ままで捧げられるのです。動物犠牲すらほとんど見られない現代ですから、人が生贄になることなど論外でしょう。しかし、これを単なる文明化とだけ見るのは不十分でしょう。神が単なる願望の対象やご利益のエージェントに成り下がってしまうのではなく、あくまでも神は神として被造物から区別されなければなりません。旧約聖書にある「神を見て生きていることはできない」という言葉には様々な意味がありますが、いずれにしても神と人との非連続を示していることに変わりはありません。「生きた供え物」は異例の事態だということを理解することが必要です。
注意すべき点は次の事実です。私たちは、自分を供え物とする以前から、すでに神に捧げられたものだということです。神に捧げられたものは死ななければなりません。そして、事実私たちはすでに「キリストにあって死んだ」のです。6章でキリストの死につくバプテスマを学んだとおりです。そして、キリストと共に死んだものは、キリストと共に生きています。私たちが「生きた供え物」であるのは、キリストにつながった者としてなのです。私たちはすでにそのような者なのですが、それをどこに「置くか」を選択するのは私たち自身です。供え物なのだから神の前に置くのが当然であり、そうでなければ単に無駄なものとなってしまうでしょう。ですから、パウロはここであらためて、私たちが自分自身を、そのふさわしい場所に置くよう勧めているのです。(ささげるとは置くという意味です)。因みに、ささげるのは「からだ」ですが、これは肉体だけでなく人全体を指しています。(キリストのからだと同じからだです)。また、「ささげなさい」は「アオリスト形」ですから、日常継続していく動作ではなく、決定的な出来事を指しています。自分の立ち位置を決めると言ってもよいでしょう。
「弟子への召命」という本の中にこのような記事がありました。ある人が、自分をキリストの弟子として、すべてを「ささげる」ことを決意しました。そこで彼は牧師の所に行って、「私は家も土地もすべてをささげます」と言いました。彼は教会に献品することを考えていたのですが、牧師はこう言いました。「では、今からあなたの家と土地は神のものなので、あなたはその管理者として暮らしなさい」と。カルトで見られる、宗教団体に財産を移転することではなく、神に直接ささげるのです。しかも生きたものとしてですから、生活そのものが供え物だということです。
これは何も目新しい話ではなく、キリストにつながった者としてのあり方そのものです。ここでのポイントは、それが「霊的な礼拝」と呼ばれていることです。ここで「霊的」と訳されているのは「理にかなった」という言葉です。(ただ、当時「霊的」という意味でも使われていたようです)。普段「日曜礼拝」のように使われている礼拝は、礼拝会のことで、キリストを中心とした人々の集会を指します。聖書の「礼拝」は、キリストとつながった人々の生活そのもので、時や場所を選びません。ヨハネ福音書でイエス様が、エルサレムでもどこでもなく、霊とまことをもって御父を礼拝する時が来る(来た)と言われたとおりです。このことは、もちろん、集会自体を否定するものではありません。へブル書で、「集まるのをやめてはならない」とある通りです。この「集まる」要素について(つまり共同体のあり方について)パウロは具体例をあげて語っていくことになります。しかし、その土台は、人と人(横)の関係ではなく、まず神と人(縦)の関係でなければなりません。横から入れば、必ず律法主義に陥ります。そして、縦も儀式や戒律が土台ならば、同じく律法主義になるのです。ですから、私たちはキリストの死と復活に与ったものとして、神の前に自らを置くことが求められます。その上で、聖霊による神の導きを受け、「礼拝」の日々を歩んでいくのです。