礼拝メッセージ要約
2024年3月30日 「奥義3」
ローマ書11章
30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、
31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ユダヤ人と異邦人は同じプロセスを通るというのが結論です。すなわち、両者とも不従順のうちに閉じ込められましたが、それは最後にはあわれみに与るためだというのが結論です。パウロの強調点はユダヤ人と異邦人のリンクですから、私たちはまずその点をしっかり把握する必要があります。その上で、やはり私たちはここに深い神秘を感じざるを得ません。ひとつは、神がユダヤ人と異邦人という二者の組み合わせで救済計画を実行されたという点。もうひとつは、不従順とあわれみが共に神の業であるという点です。
一つめについては、今まである程度見てきました。まずユダヤ人に具体的な律法を与え、律法の役割と限界を明らかにするということです。ただし、ユダヤ人が特別なのは、あくまでもみこころの「例示」という役割の故だということは大切な点です。異邦人には異邦人それぞれの律法があります。ユダヤ人からすれば、私たちは「律法なし」ということでしょうが、それはモーセ律法がないだけのことであって、別の律法はあります。だからこそ、私たちにとっても、律法を超えることが救いになるのです。律法が全くなかった、いわば「野蛮な」異邦人が、キリスト教という「文明的な」律法を受けるということでは全くないという点がポイントです。イスラエルはあくまでも見本なのです。
ただ、イスラエルには歴史的な唯一性があります。それは、実際にキリストを十字架につけたという歴史です。もちろん、今まで学んだように、これは反ユダヤ主義の理由にはならず、むしろ、異邦人にとっての警鐘とすべきものです。(すなわち、異邦人も律法の奴隷であれば同じことをしたであろうという意味です)。
二つめの点は、神の主権にかかわることです。不従順に閉じ込めたのも、あわれみを施したのも神だというのは、論理的には理解できても、心情的には納得しがたいでしょう。すべては、神の自作自演で、結局人間は将棋の駒みたいなものではないかという疑念が起こるのは避けられません。この「神の主権と人の自由意志の問題」は、9章からずっと語られてきました。それが「運命」と違うことは、これまでも触れましたが、11章の締めくくるにあたって、このテーマが浮き彫りになります。神の主権が運命にいきつくなら、人に許されているのはあきらめだけでしょう。(負けを承知の上で闘争する人もいるかもしれませんが)。それに対して、運命ではないとするなら、それは奥義であり、人には謙遜をもたらし、神への賛美へと帰結するでしょう。言うまでもなく、パウロはここで賛美をささげ、このセクションを閉じています。
33節でパウロは神に対して感嘆の声をあげています。また、34節35節では問いかけの形で神の全権を表明しています。これらの文の内容について説明は不要でしょう。神の偉大さの前にひれ伏す人の姿そのものです。私たちがパウロのようになるかどうかだけが問題です。ただし、このことは必ずしもパウロやキリスト者に限った話ではないでしょう。「偉大な神」が登場すれば、どこでも起こることですから。とすれば、私たちはもう少しパウロの言葉に耳を傾ける必要があります。それは最終節です。この節は、原文では独立した文ではなく、前節とつながっていて、前節までの目的を示す句となっています。直訳すると「すべては、神(の中)から、神を通して、神(の中)へ、神に栄光が永遠に、アーメン」となります。最後の頌栄は一般的ですので、注目するのはその前の部分です。
この句は神の全権の別表現でもありますが、それ以上の内容を含んでいます。全権というのは、神の救いの計画(救済史)において、すべては神が主導しておられるということで、ここまで何度も論じられてきた内容です。いわば、歴史的な観点と言えるでしょう。それ以上というのは、神ご自身をどう理解するのかという、いわば神観にかかわることです。それ自体は、ローマ書のこの箇所の主要なテーマではないのですが、無視することはできません。奥義をまとめるにあたって、この点について理解を深めましょう。
一般的な「一神教」の理解では、神(創造者)と被造物は絶対的に分離していて、いわば上下関係を結んでいます。その関係が律法なのか何なのかというのが、この種の宗教のテーマとなっています。対極にあるのが「汎神論」で、単純化すると、「すべては神」であるという世界観です。いわば、神が心で宇宙が体のようなもので、もとは一つです。そこでの救いは、この「一つ」を悟るということになるでしょう。「多神教」はその中間で、様々な種類があります。一神教的だが複数の神々がいるタイプもあれば、汎神論に近く、あらゆるものに神が宿るというタイプもあります。
一般的にキリスト教は一神教とみなされますが、もちろん、そんなに単純な話ではありません。ローマ書でここまで「相互内在」が主要テーマとして取り上げられたことからも明らかでしょう。このような「相互内在」を強調するのは「神秘主義」と呼ばれ、警戒されるという歴史があります。しかし、聖書がそれを語っている事実を変えることはできません。それどころか、相互内在なき救いは救いではないのです。この相互内在の根拠が、この36節です。そもそも、すべては神から出ています。しかし、この言葉もそのまま受け取ると「流出論」(世界は神の一部が流失して成立しているという世界観)とみなされ、異端宣告されます。(創造者と被造物を区別できなくなるという理由です)。神の中へというのも同様でしょう。このような事情があるので、パウロの言葉を、あくまでも歴史の話に限定しようとする人たちがいるのです。しかしパウロは、アテネでの説教で、「私たちは神の中で生き、動き、存在している」と語っています。それを歴史の話に限定することはできません。
この「神の中で」と、ローマ書の「神を通して」というのは実質的に同じ事態を語っているでしょう。「中」と言っても、神は物ではありませんから、物理的に見ることはできません。このことに関しては、物ではなく場として捉えるという方向があります。すなわち、日本の哲学で「汎在神論」と呼ばれている立場で、すべては神に「於いて」存在しているというものです。理屈の上では、これが最もパウロの言葉に近いでしょう。ただし、「汎在神論」の形式的理解では、神への賛美などは出てこないでしょう。また、容易に「汎神論」に陥る危険性もあります。それでも、この「神を通して」「神の中で」というポイントは重要であり、これがなければ、キリストや聖霊との相互内在も単なる神秘体験に終わってしまうでしょう。パウロが「すべて」と言う時に、私たちはそれを文字通り「すべて」と受け取ることが必要です。それは「今」「ここに」展開していることですが、その根拠は神であり目的も神です。しかも今のことだけではなく時間軸上に展開していて、歴史を形成しています。その中で、私たちは召され、神の子どもとされました。その子どもたちが、「アバ、父」と神を賛美するのです。