礼拝メッセージ要約

2024323日 「奥義その2

 

ローマ書11

25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。 

29 神の賜物と召命とは変わることがありません。 

30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、 

31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。 

32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 

34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 

35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。 

36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 

11章の最後の部分です。イスラエルの失敗、異邦人の救い、イスラエルのねたみ、そしてイスラエルの完成という一連の流れを読んできました。前回、異邦人の救い(完成)とイスラエルの完成がリンクしている点に注目しました。このリンクについて、30節と31に節にこう言われています。まず、異邦人の場合、以前は不従順、今は(神の)あわれみ、媒介はイスラエルの不従順という構図があります(構図A)。これは、ここまで論じられてきた内容です。次がポイントです。この構図との類比で、イスラエルの場合、今は不従順、後には(神の)あわれみ、媒介は異邦人の(神の)あわれみという構図が示されます(構図B)。「神はイスラエルがかわいいから、最後は何とかしてくれるだろう」というような、一般的でわかりやすい話ではなく、かなり込み入った内容になっています。確かに、前者の構図と後者は似てはいますが、媒介が、前者ではイスラエルの不従順であるのに対して、後者では異邦人の(神の)あわれみとなっていて、肝心の媒介が正反対となっています。類比というよりも、対照なのではないかという疑問が生じます。

 

パウロにとって(そして福音の本質にとって)、ユダヤ人と異邦人の関係(リンク)は最重要テーマです。ローマ書の主題は「信仰義認」であると言われます。しかし、おそらくそれ自体がゴールではなく、ユダヤ人と異邦人がひとつとなること(エペソ書では明示されています)がゴールだと言えるでしょう。そのゴールにたどり着く唯一の道が「信仰義認」であり、そのためには律法が乗り越えられなければならないのです。もちろん、信仰義認は個人にとっては、それ自体が救いの基盤ですから最重要であることは変わりません。しかし、福音は、ばらばらの個人が救われるだけではなく、民族、宗教、国家を超えた、人類の救いを語っています。神と人という、いわゆる縦の関係と、人と人との横の関係の両者がセットとなっているのです。その、横の関係の試金石がユダヤ人と異邦人の関係なのです(それが、今日でも最も難しい国際関係であるのは言うまでもありません)。

 

構図Aについてはすでに学びました。ここで構図Bについて考えます。異邦人の受けたあわれみによってイスラエルもあわれみと受けるというのはどういうことでしょうか。単純に考えれば、異邦人世界で福音が拡がり、それがイスラエルに到達して彼らも福音を受け入れるということでしょう。例えば、キリスト教世界が祝されているのを見て、イスラエルもキリスト教を受け入れるというようなパターンです。要するに、最後はイスラエルもキリスト教化されるという話です。これはわかりやすいですが、これまでのローマ書の主旨から離れており、また現実からもほど遠い解釈でしょう。すでに構図Aの所で、イスラエルの失敗が媒介となっているのは、同化政策が間違いだからということを学びました。同化政策とは律法主義だからです。もし、イスラエルのキリスト教化が必要だとしたら、それはキリスト教による同化政策という逆方向だが同じパターンとなってしまいます。それでは構図Aと構図Bは反対の内容を語っているになります。先程、類比ではなく対照ではないかという疑問をあげたのはそのことです。しかし、パウロは構図Aと構図Bを「同様に」語っているのですから、構図Bが同化政策であることは不可能でしょう。

 

気になるのは、構図Aでは不従順が媒介していたのに、構図Bではあわれみが媒介しているという点です。不従順による媒介から福音の逆説性を見てきましたが、あわれみというと、逆説よりも、何か「自然に」拡がっていくイメージを持ちやすいでしょう。しかし、それはイメージであって事実ではないことは、歴史が証明している通りです。異邦人の救いがイスラエルの救いにつながる点についても、そこには逆説と飛躍があると考えなければなりません。すなわち、異邦人が受けているあわれみが「自然に」イスラエルに拡がるのではなく、飛躍があるということです。その飛躍とは、今のところ、イスラエルは異邦人を見下していても、やがて彼らも「異邦人と同様である」ことに気づき認めるということです。ただし、それが、異邦人に同化することではないというところに飛躍があるのです。

 

「異邦人と同等」には二つの側面があります。まず、罪において同等だということ。この点については、ローマ書の最初から強調されてきました。しかし、このことがすでにイスラエルにとっては受け入れがたいことでしょう。異邦人が平気で犯している数々の罪を、ユダヤ人は忌み嫌っているというのが彼らのスタンスだからです。しかし、律法と罪とのリンクを悟る時に、そのプライドは砕かれます。すべての人は罪を犯したというローマ書のことばの真の意味が開かれるのです。もう一つは、救いにおいて同等だということです。すなわち信仰義認です。それが、ユダヤ教の律法からキリスト教の律法への移行であるなら意味がありません。律法を超えることができるからこそ福音なのですから。大切なのは次の点です。異邦人が律法を超えると言う時に、その律法とはユダヤ律法ではありません。従う必要も超える必要もないのですから。とすれば、それは当然、彼ら自身の律法でなければなりません。それを異邦人が実践して初めて、ユダヤ人も律法を超えるとは何なのかを目撃することができるのです。

 

繰り返しますが、律法を超えるとは、律法未満に落ちることではなく、律法を完成することです。すなわち、卒業するのです。それは、「徹底的に恵みによる」ことです。言い換えると、いくら信仰義認を説いても、実質的に律法主義の鎖につながれているならば、福音を体現しているとは言えないのです。もちろん、その体現は人間の業ではなく聖霊の働きであり、それが、ここで言う「あわれみを受けている」状態です。これが実現してこそ、罪と律法がリンクしており、救いとは罪の赦しと律法の卒業が一つのことであるとわかるのです。ユダヤ人が自らの律法主義を克服するには、単なる言葉だけではなく、異邦人が聖霊によって生かされている実例が必要です。それを通して、イスラエルも、律法(ユダヤ教システム)を社会的には保持しつつも、実質においては、その奴隷から解放され、ますますユダヤ人の本分に立ち返りながら、聖霊によって異邦人とひとつとなれるのです。