礼拝メッセージ要約

2024316日 「奥義その1」

 

ローマ書11

25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。 

29 神の賜物と召命とは変わることがありません。 

30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、 

31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。 

32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 

34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 

35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。 

36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 

9章からここまでイスラエルについて語られてきました。いよいよその結論です。それをパウロは「奥義」と呼んでいます。「奥義」とは通常は隠されているが、特別な人にだけ示される神の計画のことです。第2コリント12章2~4節でパウロは、「第3の天まで引き上げられ、人間には語ることがゆるされない言葉を聞いた」体験を語っています。ここでの「奥義」も、その体験がベースになっているのかもしれません。ただし、当時のギリシャ世界で「奥義」と言うと、特定の秘密集団に入信した人にだけ知らされるものを指すことが多いので、ややニュアンスは異なります。パウロはこの「奥義」を皆に知って欲しいと言っているのですから。その意味では、むしろ昔からの「預言」に近いかもしれません。それでもパウロが「奥義」と呼ぶのは、その形式よりも内容の深さによるのでしょう。このセクションが、神への賛美によって結ばれている所以です。

 

まず25節です。パウロがこの「奥義」を語るのは、異邦人が自分を賢いと思いあがることがないためです。前節では、神の厳しさを説いて異邦人の傲慢を戒めていましたが、そのような「警告」だけでは福音とは言えません。福音とは良い知らせだからです。ですからパウロはここで、究極的な良い知らせである奥義を語っています。その奥義とは「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです」。文字面だけを見ると、これは奥義というよりも一つの神学的な見解に読めます。現在イスラエル(の主流)はかたくなになっている(神によってかたくなにされている)が、それは期間限定だということです。期限は「異邦人の完成」であり、その後(あるいは同時に)イスラエルは皆救われるのです。

 

前に「完成」が実質的に何を意味するのかについて学びました。ただし、文字通りの内容も確認しておきましょう。12節でパウロはイスラエルの完成を「彼らの数が満ちる」と表現しています。25節の「異邦人の完成」も原文は「異邦人の数が満ちる」となっています。この「数が満ちる」というのは黙示思想の表現で、神の定めた一定数に達しないと被造物が救われないという思想です。(黙示録にも神の刻印をされた人の数字が登場します)。これを機械的にとると、邦人の信徒の数が一定数に達するとイスラエルの信徒の数も一定数に達するということになるでしょう。もちろん、「一定数」は人には隠れているので、結局それだけでは何が完成なのか分かりません。ですから、前に触れたように、完成の中身(聖霊の支配)が大切になります。

 

数の実質はともかく、ここで明らかなのは、異邦人の完成がイスラエルの完成につながっているということです。このリンク(つながり)が「奥義」の中核なのですが、その話の前にパウロは、イスラエルの救い自体が確かであることを語ります。25節後半から26節には旧約が自由に引用されています。イザヤ書5920~21節と279節を混合したものです。これも、イザヤの原文からはかなり飛躍した引用ですが、もはやそれは問題になりません。イスラエルの完成そのものが奥義なのですから。ただし、その奥義は勝手に想像した夢ではなく、確固たる大原則に基づいたものです。すなわち、神の賜物と召命は変わらないという原則です(29節)。この「賜物と召命」はそれ自体が深い問題ですが、今は、前節との関連だけを見ます。「選びによれば、先祖たちのゆえに愛されている」という点です。選びは召命で、愛されているのが賜物(原語は恵みという意味)となるでしょう。

 

この選びはこれまでも何度も語られてきましたが、ここで非常に難しい展開になります。福音を拒絶した者は「選ばれた者(残りの者)」ではなく、しかも、神によってかたくなにされたとまで言われていたからです。それなのに、ここでは、彼らはやはり選ばれていて愛されている者だと言うのです。いったい彼らは選ばれているのか無いのか、どちらなのでしょうか。この矛盾を解決する単純な方法は、「今の時代(パウロから異邦人の完成までの時代)にいる不信者は選ばれていない(すなわち神の裁きが上にある)が、その後の人々は選ばれている(すなわち愛されている)」というように、時代で区切ってしまうやり方です。しかし、これはパウロの主張とは合いません。彼は、あくまでもこの矛盾を同時の事実として語っているからです。神に敵対していることと、神に愛されていることが同時並列なのですから、これは矛盾しています。これを、反抗期の子どもをかわいいと感じる親のように薄めることはできません。彼らの上には「切り取られた枝」という厳しい現実があるのです。

 

この二つの現実(敵対していることと愛されていること)の並列には説明がついています。前者は「福音によれば」で、後者は「選びによれば」です。「福音によれば(関しては)」彼らが神に敵対しているというのは、これまで読んできたとおりです。福音を拒否したことと敵対していることは直結しています。一方、「選びによれば(関しては)」彼らは愛されています。この「選び」がだれを対象としているのかが問題になっているわけです。パウロはここで両者を同時並列に述べることによって、ある意味ではこれまでの議論をひっくり返してしまう(少なくとも越境してしまう)ことを言っています。敵対しているものが「同時に」愛されていると言うのですから。最もこれはすでにホセアの預言などによって語られていることでもあります。「神を求めていなかった者(異邦人)に見出され、愛されていなかった者(異邦人)を愛した」との神ご自身のことばです。この異邦人に向けたことばが、これはイスラエルに対して語られているのです。ですから、「選び」とは通俗的に考えられているような単純な話ではなく、その中に福音の持つ二重性が含まれているのです。すなわち裁きと赦しが一つとなっているという、十字架の真理です。私たちはあくまでも十字架のことばによって生きているのです。

 

福音の二重性(矛盾)には、外へのつながりがあります。敵対していることは「あなたがたを通して」であり、愛されていることは「先祖たちを通して」(以上直訳)という、異邦人と先祖たちとの関係です。ここから、いよいよ奥義の核心に入っていきます。