礼拝メッセージ要約
2024年3月9日 「いつくしみに留まる」
ローマ書11章
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
傲慢は罪であるという一般論を超えて、異邦人のユダヤ人に対するふさわしい態度を、パウロはオリーブの木の例えを使って説明しています。古来、オリーブの木は、イスラエルの象徴のひとつとして使われてきました。24節では、イスラエルを栽培種のオリーブと呼んでいます。神が直々にイスラエルを「植えて育てた」というニュアンスの表現です。パウロの論旨はこうです。この栽培種のオリーブの枝の一部が切り取られたとは、福音を排除した人々が、オリーブの木が象徴する「真のイスラエル」から排除されたということです。その代わりに、元来は栽培種ではない異邦人が、福音を受け入れたことによって、「真のイスラエル」につながりました。パウロはここで「真のイスラエル」という表現を使っていませんが、これがテーマであることは後ではっきりします。この、イスラエルの一部の排除と異邦人の救いはこれまで繰り返し語られてきました。
この「接ぎ木された」異邦人は、もちろん真のイスラエルの一部となったのですが、ここに微妙な問題があります。それは「真のイスラエル」と地上に見られる具体的なイスラエルとの関係です。前回とりあげた「置換神学」にも関係する話です。まずはパウロの言葉に耳を傾けましょう。オリーブの木につながった異邦人は、イスラエルの残りの者と共に、「根」から豊かな養分を受けているとあります。この「根」とは何でしょうか。ユダヤ人の中では、それは「先祖たち(父祖)」を指しています。すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブといったイスラエルの先祖です。これは自然な解釈でしょう。彼らの子孫がイスラエルなのですから。そして、この路線を単純に受け継ぐと「反置換神学」が成立します。すなわち、異邦人もオリーブの木の一員として、父祖の子孫、すなわちユダヤ人になるのだという思想です。異邦人教会がイスラエルに取って代わったという置換神学の正反対の立場です。言うまでもなく、このようなユダヤ同化政策を拒否するのがローマ書の主要テーマですから、この素朴な路線をとることはできません。
このために、私たちは「根」を単純にキリストのことだと解釈することもできますが、パウロもユダヤ人ですから、やはりここは父祖ととるべきでしょう。つまり、アブラハムです。そして、これについては4章ですでに論じられました。パウロもアブラハムを父祖としていますが、それはアブラハムの肉(社会や遺伝的特質)ではなく、彼の信仰によるのだというがポイントです。アブラハムの霊的資質を受け継ぐものがオリーブの木、すなわち真のイスラエルなのです。ただし、それが単純に「制度としてのキリスト教会」に置き換えられてしまうことも問題だというのは前回学びました。ここが繊細な部分です。18節を読みます。異邦人が「根」に対して誇るべきではないのは当然です。しかしパウロが言いたいのは、折られた枝(福音を拒絶したユダヤ人)に対して誇ってはならないということです。この点について、単なる謙遜の勧めを超えてパウロが語ることを読みます。
まず19節から22節です。これは「警告」です。彼ら(不信のユダヤ人)の上にある神の厳しさは、異邦人に対する警告となるということです。このパターン自体は旧約の時代からあります。神が不信のイスラエルを外国によって裁いた際、その外国が思いあがってイスラエルを必要以上に傷めつけ喜んだことに対して、神が厳しい裁きを告げられています。これは、外国がイスラエルを攻撃したケースですから、福音の場合とは違います。しかし、裁かれている者に対して持つべきは憐みであって裁くことではないという原則は同じです。なぜなら、「裁き」は決して他人事ではないからです。ですから、20節にあるように、私たちはまず恐れるべきです。21節では、イスラエルを台木の枝と呼び、いわば生粋の枝であったものが惜しまれなかったのなら、そうではない異邦人が彼ら以上に惜しまれると考えることはできません。裁きに関しても、私たちはイスラエルを「私たちの代表例」として見るべきです。(律法や信仰についても同様です)。
22節では、いつくしみと厳しさと表現しています。福音を受け入れた者にはいつくしみが、そうではない者には厳しさが表れているというのです。このことについて注意するべき点があります。旧約のパターンでは、厳しさ(裁き)とは外国(異邦人)からイスラエルが攻められるという、具体的な出来事がありました。(その他にも、飢饉や疫病などの目に見える出来事がありました)。しかし、福音を受け入れなかった人には、必ずしもそのような出来事があるわけではありません。目に見える出来事について言うならば、むしろ福音を受け入れた人たちの方が迫害を受け苦しめられたのであって、その逆ではありません。(もちろん、その後の歴史で事情が逆転したことについてはすでに学んだ通りです)。これは大事な点で、神のいつくしみと厳しさを人間的な価値観から判断することはできません。
その上でパウロは、私たちが「いつくしみ」の中に留まるように言っています。ある意味では、これは単純な話でしょう。いつくしみと厳しさの二つしかないのなら、いつくしみを離れれば厳しさに直面するとは当然だからです。しかし、前にも見たように、いつくしみと厳しさは可視化できるものではないので、実際には、このことは簡単な話ではありません。(キリスト教からユダヤ教に改宗するというようなことなら目に見えますが、そういう単純なことではありません)。ここでの「いつくしみ」は「恵み」と同義でしょう。私たちが神の恵みに留まるべきなのは当然です。逆に、恵みに留まらないというのは、律法の行いに逆戻りするということです。恵みから始まったことを行いで完成しようとする誤りについては、これまでも繰り返し述べられてきました。パウロの場合ではこういうパターンです。恵みで救われた彼が、律法主義者から受け入れてもらうために、異邦人も信仰プラスユダヤ人化が必要だと説く場合です。律法主義者はこれを、信仰プラス律法と肯定的に呼ぶでしょうが、パウロはそれを断固として拒否しました。プラスどころか、恵みから落ちることだからです。恵みは恵みで完成します。そこから外れ、恵みから律法に逆戻りするならば、神の厳しさに直面するでしょう。ある意味では、神の厳しさは律法の厳しさによって表現されているとも言えます。律法とは、逸脱をゆるさないシステムのことだからです。しかし今や律法を超えた救いが現れました。律法主義者であった彼らも、その「不信」から「恵み」に立ち返るなら、彼らも「オリーブの木」につながるでしょう。そして、その台木(アブラハム)につながりますが、それは肉のアブラハムではなく信仰のアブラハムです。そのために彼らは一度「旅立った」のです。