礼拝メッセージ要約
2024年3月2日 「異邦人の傲慢」
ローマ書11章
17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
ここまで、イスラエルの不信と異邦人の救いが語られてきました。そのために、異邦人がユダヤ人に対して誇ることがないようにパウロは忠告します。もちろん、謙遜は美徳であり、傲慢は破滅への道であるというのが普遍的な原則である以上、異邦人がユダヤ人に対して誇るべきではないのは当然です。しかし、その後の歴史は、パウロの忠告には全く従わない方向を歩んできました。
当初は、ユダヤ人が主体のキリスト者共同体に異邦人が加わるという形でした。その際に、異邦人がユダヤ人化する必要がない、いわゆる「割礼なしの救い」の原則が確立されるのですが、ローマ書もまさにこの問題を扱っています。しかし、パウロはその時代、すでに将来訪れる可能性がある、ユダヤ人と異邦人の立場の逆転を予感していたのかもしれません。イスラエルの失敗と異邦人の救いがリンクしていることと、人間の持つ傲慢という罪の本性から、この予感は突飛なものではなかったのでしょう。パウロ以降、異邦人信徒の増加と、イスラエルの壊滅という悲劇を通して、教会は異邦人主体のものへと変わっていきました。後に、キリスト教という宗教となり、さらにローマ帝国の国教となるに及んで、ユダヤ人の存在は末席に追いやられたのです。その後は、西洋のみならずロシアなども含めたキリスト教世界で、様々なユダヤ人差別と迫害を起こり、ホロコーストでその極みに達しました。戦後、その反省とイスラエル共和国の誕生によって、反ユダヤ主義を排する動きが起こりました。しかし、近年ではその動きに対する反動から、ネオナチを含む新たな反ユダヤ主義が台頭していることも周知のことがらです。
これらには、もちろん、政治的、文化的、経済的、宗教的要因がありますが、ここで私たちにとって重要なのは聖書的、神学的要因です。キリスト教世界でユダヤ人差別を正当化するために使われたのは、「キリスト殺しの呪われたユダヤ人」という聖書の曲解と、イスラエルは「キリスト教会(もちろん異邦人主体)」に置き換えられたという、いわゆる「置換神学」です。前者は、ユダヤ人に対する積極的な迫害につながり、後者はそれを正当化、黙認する枠組みを提供してきました。前者については、これまでも度々言及してきました。ユダヤ人に対する厳しい批判は、ユダヤ人自身による自己批判なので、それを異邦人が使うことはできず、むしろ、異邦人自身への自己批判のモデルとして学ぶべきだということです。これは、理屈は明確ですが、実践は困難な事柄です。
対して、後者「置換神学」は理屈自体が複雑です。パウロも11章でこの問題について語っているのですが、最終的には「奥義」に至る深いテーマとなっています。一般的に「置換神学」と呼ばれているのは、以下のような発想です。「旧約時代、神はイスラエルを通して御業を行った。(イスラエルが神の民だった)。しかし彼らはキリストを拒否したために、神の民という地位を追われ、それはキリスト教会に置き換えられた。従って、もはやイスラエルには特別な意味はない」というようなものです。この主張には、全体としては間違っているとはいえ、部分的には真実が含まれているので、話が複雑になるのです。
この話の要点は、「イスラエル」と「キリスト教会」という二つのキーワードが何を指しているのかです。それによって、話の実質はいくらでも変わってくるのです。ローマ書11章では、このうち「イスラエル」という言葉が扱われています。それについては、これから読んでいくので、ここでは「キリスト教会」の方を中心に、置換神学を見ましょう。もし、「キリスト教会」が、聖書が語る、「ユダヤ人と異邦人からなるキリストのからだ」を指しているのならば、そこに反ユダヤ主義が発生する余地はありません。この一点だけでも、西洋や東欧ロシアの「制度化したキリスト教会」が問題を抱えていることは明らかでしょう。この「制度化した教会」はもちろん異邦人主体に運営されてきましたが、問題は、ユダヤ人に対する態度です。それには二つの路線があります。「排斥」と「同化」です。排斥とは、ユダヤ人を異物として隔離、排除する路線で、ホロコーストに極まります。「同化」は、彼らを異邦人化しようとする路線です。要するに、ユダヤ教からキリスト教に改宗させようとする(キリスト教会制度に組み込もうとする)路線です。このどちらもが誤りであることは、まさにローマ書が詳しく述べているところです。もちろん、パウロの時代は、ユダヤ人と異邦人の立場が反対でしたが、本質は同じです。ただし、西洋がキリスト教世界ではなくなり、教会制度も弱体化した今日では、ユダヤ教の諸宗教の一つとして扱う、「我が道を行く路線」も増えました。無関心路線とも言えます。迫害よりはマシですが、何の役にも立たないでしょう。無関心であれば、関心のある人たちに流されるだけですから。
この状況を見れば、すべてはこの世の常に従っているのがわかります。今日の移民問題も本質的には同じでしょう。これは当然です。制度的教会は、要するに社会の仕組みの一つなのですから、この世と同じ問題を抱えているのです。要するに、律法によって維持されている組織ということです。ですから、置換神学に登場するキリスト教会は、律法主義の影響が強いことがわかります。言い換えると、置換神学を単に「非置換神学」に代えたからといって、問題が解決するわけではないということです。別の形の律法主義に陥る可能性があるからです。
「非置換神学」の具体例が、反ユダヤ主義に対抗する形で存在している「ユダヤ至上主義」とでも言うべき、ある種のユダヤ主義です。これにもいくつかのタイプがあります。一つは「時代区分主義」というもので、旧約をイスラエルの時代、新約を異邦人の時代、そしてキリスト再臨後を新たなイスラエル中心の時代と区分する神学です。もう一つは、そのような区分抜きで、あくまでもすべてをユダヤ教の枠でとらえようとするもので、今日では、いわゆる「メシアニック」の中の一部の人たちのような存在です。前者は昔からプロテスタントの中の一つの終末論に基づいたもので、かなりの信者がいます。後者は言うまでもなくユダヤ人中心ですが、それに賛同する異邦人も少なくありません。このように神学は様々ですが、私たちは神学によって救われるのではありません。キリストとつながって救われるのです。ただし、キリストとのつながりを邪魔する「律法」の存在が大問題です。どんな主義、神学であれ、それ自体が律法となる限り、わたしたちは律法の奴隷になってしまいます。このことを踏まえた上で、パウロの言葉に耳を傾けていきましょう。