礼拝メッセージ要約

2024223日 「イスラエルの完成」

 

ローマ書11

12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。 

13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。 

14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。 

15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。 

16 初物がきよければ、粉の全部がきよいのです。根がきよければ、枝もきよいのです。 

17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、 

18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。 

 

前回、「イスラエルのつまずき→異邦人の救い→イスラエルのねたみ」という一連の流れを見ました。話はそれで終わりではありません。その後に重要な結末が待っています。12節から11章の最後まで、パウロはこの結末について語ります。まず12節です。イスラエルの違反や失敗は異邦人の富(救い)につながりました。そうだとすれば、イスラエルの完成はどれほどすばらしいものをもたらすのかという質問が提示されます。まずは人間的で単純化した理解です。AのマイナスがBのプラスになったのなら、Aがプラスになれば、Bはさらに大きなプラスになるだろう。AとBはウィンウィンの関係になるのではないか。このような理解です。これは、ある意味では分かりやすい理解です。しかし、これは物事を図式化していて、いろいろな事が隠されてしまいます。

 

ここまで、イスラエルの失敗がなぜ異邦人の益になったのか読んできました。このこと自体、非常に複雑な内容を持った出来事です。今度は、イスラエルの完成という、失敗とは反対の出来事を出発点にした話です。まず、イスラエルの完成とは何かを考えましょう。単純な所から始めます。イスラエルの失敗が福音の拒絶だったのですから、完成は福音を受け入れることであるのは明白です。ここで問題は少なくとも二つあります。ひとつは、イスラエルが福音を受け入れるというのは、実際どういうことなのか。もうひとつは、それが「完成」であるというのは、実際どういうことなのかということです。まずひとつめの問題です。

 

「福音を受け入れる」ということには、個人と集団の両方のケースがあります。パウロの時代でも、個人の話としては、彼自身も含めて福音を受け入れたユダヤ人は大勢いました。(ここで、福音を受け入れるということ自体の内容については議論しません。それは、ローマ書がここまで詳細に論じてきたことです)。イスラエルが拒否したというのは、まずは、ユダヤ教の主流派(サドカイ派とパリサイ派)が「公式に」拒否したということです。さらに言えば、その公式決定が支配者であるローマ側に受け入れられ、ローマの権威の下で公式に処刑が行われたということです。これが拒否だとすれば、その反対とは、ユダヤ教の支配層と、政治的権威を持っている団体が、過去の行動が誤りであると認め撤回することなのでしょうか。現代の状況で言えば、イスラエル政府と、ユダヤ教諸派の代表者たちが会議を開き、イエスがメシヤであると宣言することなのでしょうか。

 

もちろん、そのような事態を期待する人たちはいます。物事を「宗教(律法)」の観点から捉える人はそうです。律法とは言うまでもなく、集団の秩序を支えるシステムの体系です。現代のイスラエルで言えば、それはシオニズム的な精神、共和国としての政治制度、モーセ律法の取り扱いといったものでしょう。これらが「福音」を拒否しているというのはどういうことでしょうか。シオニズム的精神について言えば、キリスト教のシオニスト(いわゆる福音派に多い)とユダヤ側との相互理解が進んでいる面があります。そのために、キリスト教イコール反ユダヤという一面的な理解が変わってきて、ユダヤ人が福音に耳を傾ける可能性が増えるという場合もあります。ただし、それは個人的な問題ですから、「公式見解」とは別の問題でしょう。政治制度については、キリスト教保守の見解によると、キリストが再臨して絶対君主として支配するということですから、それを公式に「受け入れる」というのは、今のイスラエルが完全に敗北し服従するという意味以外に考えられません。最大の問題はもちろん「モーセ律法」です。律法が乗り越えられることが福音です。それなのに、福音が公式に(すなわち律法にのっとって)受け入れられるというのが何を意味するのかは不明でしょう。

 

このように、律法(宗教)の観点に固執する限り、パウロの説く福音は実質的に意味不明になってしまいます。福音は神と人を直接結びつけます。それはまず個人から始まります。問題は、それが集団に拡がる時に起こります。信仰そのものは個人の中に留め、集団は別の原理でまとめようとすることによって福音から離れるのです。別の原理とは律法であり、それがたとえキリスト教の律法であっても同じことです。それでは、イスラエルの完成とはなんでしょうか。それは、彼らが全体として律法によらず、聖霊によって導かれる民になることでしょう。言うまでもなく、それはユダヤ人に限らず異邦人にとっても同じことです。その時、イスラエルの政治形態や社会構造、そして宗教諸派の活動がどのようになっているのかは不明です。というより、それらの外形を描写しても意味はなく、実際に聖霊の働きが支配しているかどうかが問題なのです。もちろん、どのような個人や集団であっても、自分が聖霊によって導かれていると主張することは可能です。パウロの時代の支配層であってさえ、彼らが聖霊に逆らっていることなど認めなかったでしょう。律法を遵守することが聖霊に逆らうことになるなど、想像を絶しているのです。

 

ですから、聖霊に導かれているかどうかは、本人の申告ではわかりません。実質的に律法の下にあるのかどうかによって判断するしかないのです。これはすべてのケースに当てはまります。イスラエルという集団に関して言えば、彼らは律法を維持していてもそれを乗り越えます。するとまず起こるのは、律法という壁によって隔てられてきたものが和解し、結びつけられます。最大の規模では、ユダヤ人と異邦人という、もっとも結びつき難い両者が結びつきます。それはパウロや使徒の時代から始まっていますが、未だに道半ばです。他にも、男と女、自由人と奴隷など、単に環境や文化だけではなく、それらを支えている律法によって分断されているものも同様です。そもそも、当初、福音がすさまじい勢いで拡がったのは、この「福音による解放」という実質があったからです。この「解放」は別の表現では「和解」と呼ばれます。秩序の破壊ではなく、新しい秩序の創造です。

 

この「新しい創造」がイスラエルにおいて実現するのが、彼らの完成ということになるでしょう。これを単に現状観察から考えるなら、とてつもない飛躍に思えるでしょう。日常では、まさにその正反対が進行しているように見えるのですから。しかし、神は真実なお方です。神が彼らを完成してくださるというのがパウロの確信であり、私たちも受け入れるべきビジョンなのです。ただし、このことを、私たち異邦人の有様を切り離して、抽象的にイスラエルのことを考えるのは完全な誤りです。彼らの完成には、異邦人が根本的に関わっているというのが、パウロがここで述べていることだからです。そこには「イスラエルのねたみ」があるのですが、それは、異邦人が律法から解放されていることについてのねたみでなければなりません。ただし、ここで肝心なのは、その律法が、モーセ律法ではなく、彼らの律法のことであるという点です。異邦人がモーセ律法から自由なのは当然ですが、それを別の律法(例えばキリスト教の律法)に置き換えただけであれば、そこに彼らのねたみは発生しません。必要なのは、私たちが自由であり、かつ和解の世界に生きていることなのです。