礼拝メッセージ要約
2024年2月16日 「同化政策ではなく」
ローマ書11章
7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
8こう書かれているとおりです。
「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
9ダビデもこう言います。
「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
前節で、残りの者とは「恵みの選び」による人のことであると学びました。その上で、残りの者となっていないイスラエル主流派について、パウロは改めて語ります。彼らは、求めていたものを獲得できなかったと。求めていたというのは、以前にも語られていた「義」のことでしょう。神の義ではなく律法の義を追い求めてしまったのです。それは彼らが、「かたくなにされた」からだとパウロは語ります。言うまでもなく、彼らをかたくなにしたのは神です。このこと自体も衝撃的です。救いに選ばれた者と、そうでない者がいるという時に、そうでない者も神の決定によるということですから、以前にも取り上げた「二重予定説」なるものが生まれてくる余地もあるわけです。その行きつく先は運命論です。そのようなリスクを抱えながらも、パウロは陶器師と器の例などをあげて、神の主権を主張してきました。ここでも、彼らが勝手にかたくなになったのではなく、神が彼らをかたくなにされたと述べ、旧約聖書の言葉を引用しています。
まず8節は、申命記とイザヤの預言を合体する形で、かなり自由に引用しています。言わんとしていることは明解で、イスラエルのかたくなさは神の主権によるのだということです。続く9節は詩篇の69篇からの引用ですが、これは大胆です。というのは、この言葉は、ダビデが彼を迫害する敵を呪う時に発したものです。彼らが迫害の策略をめぐらしている食卓が、むしろ彼らの破滅になるようにと願っています。これを、神がイスラエルに対するものとして引用するのは無茶に思えるでしょう。もちろん、神に敵対するイスラエルの民に対して、神も敵対されるというテーマ自体は、旧約の中でも繰り返し登場しますから、それ自体は理解できるでしょう。ただし、ここでパウロが食卓の話に言及している背景に、神殿祭儀を中心としたイスラエル主流派のことが念頭にあるという指摘があります。「食卓」はしばしば神と人との交わり(祭儀)を象徴しているからです。キリストとの交わり(主の食卓)を拒絶した人々への言及という話ですが、ここでは深入りしません。いずれにしても、あくまでも神の主権のもとに事が運ばれているということが一貫して主張されているわけです。
この前提のもと、いよいよ11節から、11章の中心テーマである「奥義」についての話に入ります。「奥義」なので非常に深く人智を超えた話でもあるので、まずは、人間的な俗のレベルに落として理解しましょう。ざっとこんな感じです。「ある人が、プレゼントをAさんにあげようとした。しかしAさんはそれを受け取らなかったのでBさんにあげた。それを見たAさんはBさんをうらやましく思った。結局Aさんもそれを欲しくなったので、めでたくAさんもプレゼントをもらった」というような話です。もちろん、「ある人」は神、Aさんはイスラエル、Bさんは異邦人、そしてプレゼントは福音を指しています。もちろん、事はそんなに単純ではありませんが、一旦はこの図式を参考にしつつ、パウロの言葉に耳を傾けていきましょう。
まず11節です。彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためではないとあります。言うまでもなく、つまずいたとは、キリストを拒絶したことです。福音につまずいたとも言えるでしょう。しかし倒れるためではなかったと言われています。「つまずいたけれども倒れなかった」と言ったら、怪我には至らず、たいしたことがなかったような印象がありますが、もちろんそうではありません。彼らは倒れました。それも酷いかたちで。ただ、倒れること自体が目的ではなかったという意味です。では目的は何だったのでしょうか。11節がその答えです。11節の原文はシンプルです。異邦人においての救いは彼ら(イスラエル)の違反(単数)において(よって)というものです。単純ですがそのままでは分かりにくいので、目的を表す訳になっているのでしょう。しかもこの文はここで終わりではなく、イスラエルの違反〜異邦人の救いという構図自体が、イスラエルのねたませることになるという文になっています。違反〜救い〜ねたみが一連の出来事であり、それが神の行為だということです。
歴史の経緯としては、確かに福音はイスラエルから始まり異邦人世界へ拡がりました。しかし、ここに深刻な疑問があります。すなわち、イスラエルがまず受け入れ、それから順に異邦人世界に拡がっても良かったのではないかという疑問です。言い換えると、なぜイスラエルの救いが自然に(平面的に、一直線的に)周囲へ拡がらず、イスラエルの拒否という危機が必要だったのかということです。「痛み」抜きで世界宣教は不可能だったのはなぜなのでしょうか。これはパウロにとってもユダヤ人同胞にとっても深刻な問いです。この問いが「奥義」とつながっているのですが、パウロはこの点に関してさまざまな議論をしています。その議論は次節に譲りますが、一点おさえておくべきことがあります。それは宣教というものの本質に関わることでもあります。「平面的・一直線的」な宣教は、ユダヤ教が当時行っていたものです。すなわち、自分の枠に他者を入れていくという方法で、自分たちの世界を拡大していくという方法です。(もちろん、今日にいたるまで、様々な宗教で行われています)。ユダヤの場合はもちろん、異邦人が律法を受け入れ「ユダヤ人になる」という形です。
それに対して、福音は「自分たちに他人を同化させる」のではなく、人々を神に直接つなげるのです。同化の原理は律法です。福音は人々を律法から解放し自由にします。ですから、それは神と人という縦の関係を基本にした上で人と人の横の関係を樹立するという、いわば立体的な形で進んでいきます。もちろん、ユダヤ人であれ異邦人であれ、だれでもこの関係に招かれています。しかし、律法主義に固執する人たちは、これを拒絶しました。彼らの拒絶は、この律法主義の問題を明らかにしました。それは同時に、ユダヤ教の同化政策を否定し、異邦人が律法なしで救われる道が開かれたのです。ユダヤ人が福音の拒絶によって律法主義の問題を明らかにしたのは、ユダヤ人固有の問題ではありません。言い換えるとユダヤ教固有の問題ではないということです。それは「律法」そのものの本質の問題ですから、ユダヤ人に限らず律法に相当するものを保持する全ての人にあてはまります。このことを押さえた上で、イスラエルの役割を改めて見ていきます。
イスラエルの違反が異邦人の救いにつながったのは、イスラエルにねたみを起こさせるためでもあります。「ねたみ」については10章ですでに学びました。旧約の元の文では、どちらかと言えば、あこがれではなく敵意の意味が強く、単純に異邦人が受ける祝福をユダヤ人がうらやましく思うという、単純な話ではないことも重要な点です。パウロも、この「ねたみ」の実際について述べてはいませんが、この「ねたみ」こそが、歴史の謎をひもとくキーワードなのです。「ねたみ」は「熱心」と同じ単語です。「神の熱心」のもつ二重性についても読んできたとおりです。熱心が人の義に向かうのか、それとも神の国の表れであるのか、これこそがローマ書の主題です。そして、私たち一人ひとりも、この「熱心〜ねたみ」の問題に関わっているのです。