礼拝メッセージ要約

202429日 「恵みの選び」

 

ローマ書11

すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。 

神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。 

「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」 

ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」 

それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。 

もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。 

では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 

こう書かれているとおりです。

「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。

10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

 

9章から続くイスラエルの問題は11章で結論を得ます。今回読む11章の最初の部分は、これまでの話のまとめとなっています。イスラエルの主流は、彼らのメシヤを拒絶しました。これに関連して、「残りの者」というテーマが登場しました。元来それは、イスラエルの内部に、神に忠実な少数の者がいるという意味でしたが、そこから異邦人も救われるという話に展開してきました。10章の最後はそのまとめとして、神は異邦人にご自身を現し、不従順で反抗的な民(イスラエル)には一日中手をさしのべたと書かれています。(手をさしのべることの二重の意味については前回学びました)。このことから、神はイスラエル(ご自身の民)を退けてしまわれたのかという深刻な問いが生じます。答えは明確な「否」です。それは、単なる希望的観測ではなく、神の深いご計画によるのですが、これをパウロは「奥義」と呼びます。11節以降で、パウロはその奥義を語っていくのですが、今回はそこへの入り口となります。

 

まず1節でパウロは、自分もイスラエル人だと強調します。2節から4節で、預言者エリヤのケースを引用し、神がイスラエルの中から「選びの民」を残しておられたと述べます。同様に、パウロ自身も預言者の系譜に似て、自分もそのような「残りの民」の一員であり、他にも少数とは言え、同様の民がいるということです。それ自体は、今まで語られてきたことですが、あらためて二つのことがポイントとなります。ひとつは、彼と同胞との一体性で、もうひとつは、「選び」は恵みであるということです。まず一体性の点を確認しましょう。

 

パウロは、キリストの民の一員であり、そうではない(キリストに敵対している)同胞とは全く異質の存在です。それだけなら、両者は没交渉となっても可笑しくはありませんが、同時に両者は「同胞」として、切っても切れない関係にあります。言い換えると、天に国籍がありつつ、地上に寄留している者のありかたです。国籍については対立しつつ、寄留者としては一体であるという「二重性」は、パウロに限らず私たちにもかかわる重大なテーマです。この問題は12章以降で具体的に取り扱われることになります。今はユダヤ人の問題も見ておきましょう。パウロに限らず、聖書には「ユダヤ人」に対する厳しい言葉がたくさんあります。パウロが引用している数々の旧約預言を始め、ヨハネ福音書や他の書簡にも、「ユダヤ人」が否定的な意味で使われています。しかし、これはあくまでもユダヤ人の内部でのやりとりであって、外部(異邦人)がユダヤ人を批判する根拠にはなりません。聖書は、第一義的には「ユダヤ人の、ユダヤ人のよる、ユダヤ人のための」書物です。それを異邦人にも適用できるようにと、パウロは命がけで福音を伝えているのですから、後のキリスト教世界で広がった「反ユダヤ主義」など、完全に的が外れています。異邦人が聖書を読む場合、ユダヤ人によるユダヤ人批判(自己批判)は、私たちが自己批判をする際の参考となるものです。(ローマ書の主要テーマである律法からの解放もその観点から読む必要があります)。賛同にせよ批判にせよ、部外者ではなく当事者の立場でなされなければ意味がありません。ただし、当事者だからといって周囲に飲み込まれてしまっては何も始まりません。このように、当事者でありつつ、それに制約されない視点を持つことを、「預言者的なあり方」と呼べるでしょう。

 

ふたつめのポイントは「恵み」です。これもローマ書のテーマそのもので、ここまで繰り返し述べられてきました。ここでの強調点は、「恵みの選び」と、恵みと選びがひとつであることの確認であり、それが「残りの者」の存在の根拠であるということです。9章から様々な旧約の事例をあげて、パウロはこのことを語ってきました。ここで、このポイントを改めて確認しましょう。「恵み」とは、神から一方的に与えられるものです。与えられる側から見れば、自分の属性とは無関係だということです。ところが、人には、個人としても集団としても異なる属性があり、それぞれに対して神の計画があります。この「神の計画のもとで、使命が与えられている」ことが、すなわち「選び」ということになります。とすれば、残りの者も、恵みの選びによって存在していることは自明のことです。この思考の流れ自体はパウロの発案ではなく、ユダヤの伝統そのものです。パウロに敵対する人も、それに反対することはできません。(パウロと同胞の一体性の一例です)。もちろん、彼らにとって選ばれているのは律法主義者であってパウロではありません。だれが「残りの者」なのかは、単なる議論では決着がつかないでしょう。

 

しかし、ここで鍵になるのは、「恵み」の原理が一貫されているかどうかです。律法主義者にとっては、恵みは律法が与えられたという事実(すなわちユダヤ人であるという事実)だけにかかわっていて、その先には及ばないのです。主流派にとって選びは、イスラエルという枠組みを設定するものです。それに対して、非主流派(預言者たちや、パウロ時代のエッセネ派などの分離主義者)は、イスラエルの枠の中に、さらに選ばれた枠があると主張します。この枠は、選ばれた者ではありますが、それを事実であると証明するためには、より厳格な律法の実行が求められています。ですから、彼らの判断基準は、律法をどう解釈し、どう実行するかであり、それによって枠組みが維持されているのです。言い換えると、神の主権を説きながら、実際には人間の判断を「神の名のもとに」実行しているに過ぎません。

 

それに対して、パウロの説く福音では、恵みがすべてに貫徹しています。恵みで始まったものが律法で完成するのではなく、恵みは恵みで完結するのです。ですから、恵みの選びによって残された者とは、徹頭徹尾、恵みの原理によって生きる人のことです。自分が神によって選ばれ、使命を与えられていると主張する人は、しばしば自分の業績によってそれを証明しようとします。これはユダヤの律法主義者に限ったことではなく、キリスト教の中でも見られるものです。しかし、選ばれた者とは、他人を勝手に選別して自らの主張を実現しようとする人ではなく、恵みによって支配され、神の恵みを分かち合う人のことです。すなわち、赦しが裁きに打ち勝ち、いのちが死を呑み込むキリストの世界に生きる人です。この大原則を確認した上で、パウロはあらためてイスラエルと選びの問題を取り上げ、続けてその奥義を語っていくことになります。