礼拝メッセージ要約
2024年2月2日 「主の御手」
ローマ書10章
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。
「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」
19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、
あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
20 またイザヤは大胆にこう言っています。
「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
21 またイスラエルについては、こう言っています。
「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
前節で、「主の御名を呼び求める者は皆救われる」という、決定的な結論が語られました。この結論を伝えるのが「福音のことば(知らせ)」です。9章からここまで取り上げられているのは、この知らせを受け入れない、多くの同胞(イスラエルの民)の問題です。そして、ここであらためてこのことに触れます。まず16節でイザヤを引用し、皆が受け入れていないのは、すでに預言されていた(すなわち聖書に記されている)ことであることを確認します。その上で、17節18節に重要なことが記されています。
この箇所のよくある解釈は次のとおりです。「信じるためには、信じる内容が必要であり(すなわち信条)、それを聞く(知る)ことが前提となる。信じない人がいるのは、彼らが聞いていないからかという疑問に対して、いや皆聞いている(そのことばは地の果てまで届いている)。つまり、信じないのは彼らの自己責任(罪)だ」というようなものです。そして、パウロは神を弁護し、彼らを糾弾しているのだと。しかし、これはやや物事を単純化した解釈でしょう。まず17節です。直訳すると、「信仰(特定の信仰すなわちキリスト信仰)は聞くこと(の中)から出てくる」です。始まりというと順序のように思えますが、聞くことが信仰の発生源だというニュアンスです。問題は何を聞くかです。「キリストについてのみことば」とありますが、直訳すると「キリストの発話(語りかけ)」です。もちろん、それをキリストについてのことば(情報)と訳すことも不可能ではありませんが、それでは、ローマ書のここまでの話が薄まってしまいます。「発話」(レーマ)は「ことば(ロゴス)」よりも、実際に語られることばのニュアンスがあります。
これは、まさにパウロ自身が体験していることでしょう。彼は、キリストについての話を聞いていた上でキリストの弟子を迫害しました。しかし、キリストご自身の声を聞き、打倒されて回心したのです。パウロと形は異なっていても、この本質は変わりません。私たちを変えるのは情報ではなく、神の活きたことばです。「文字は殺し霊は生かす」とあるように、キリストの発話とは聖霊の働きそのものなのです。
18節のその前提で読まなければなりません。「そのことばは地の果てまで届いた」と言っても、それがキリスト教の情報という意味なら、当時はもちろんのこと、今日でさえ実現していません。もちろん、地道な聖書翻訳事業によって、聖書を自国語で読めない人の数は減ってきてはいますが、たとえ聖書が書店にあるからと言って、情報が伝わっているとは限らないでしょう。情報伝達は大切ではありますが、信仰を発生させるのはあくまでもキリストご自身の語りかけです。そして、それは、私たちの認識の限界を超えて、みこころのままに神ご自身が行われています。聖霊は、風のごとく自らの思いのまま吹くのです。聖霊(生けるキリスト)が主であって、情報は従です。
この意味で、神はイスラエルに語りかけておられるのですが、その様は通常に想像するものとは異なっているというのがパウロの主張です。19節にその語りかけの実態が記されています。「わたしは、民でない者のことで、
あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」というのが「語りかけ」だというのです。イスラエルの主流が信じないのは、ねたみと怒りを起こさせるためなのです。(これがなぜ「福音」なのかというのがテーマであり、11章へとつながっていきます)。この言葉は申命記32章21節の後半で、モーセがイスラエルに向かって語ったものです。原文の文脈はこうです。「彼らは後に主から離れ偶像に向かう。それによって主のねたみと怒りを引き起こす。だから主も彼らに対して異邦人を使って怒りとねたみを引き起こす(つまり、異邦人によってイスラエルを裁く)」という予告で、実際に歴史な中で繰り返し起こっているものです。この「裁きの言葉」をパウロは引用しているのですが、これが大転換をするのが福音です。
パウロの時代、多くの異邦人がキリストの民に加えられてきました。そしてキリストを拒絶するユダヤ人はそれを嫌い、敵対心を持っていました。この意味では、「ねたみ」はあくまで悪意であり、うらやむという要素はないでしょう。(もちろん、うらやましいと思った一部の人は、キリストを受けいれたでしょう。しかしこれは受け入れない人のことがテーマです)。現在でもユダヤ教保守の人の多くは、そのような意味でキリスト教に敵対心や警戒心を持っていると思われます。ここでのポイントは、19節と20節とをつなげていることです。その結果、「わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした」とありますが、彼らはイスラエルの残りの者ではなく、異邦人であるというパウロの結論が示されています。このようにして、モーセの律法と預言者たちのことばを組み合わせてパウロは福音を述べています。
キリストの語りかけは、ユダヤ人にも異邦人にも本質的には同じです。しかし、その働きは違った結果を生み出しています。異邦人にとっては恵みであるものが、ユダヤ人の多くにとっては怒りを引き起こしているのです。それにしても、このパウロのことばは正しいとは言え、非常に微妙なものであることも事実です。モーセでは、異邦人はイスラエルを攻撃する敵であったのに、福音では敵ではないのですから。(敵対視しているのはユダヤ側でした。しかし、後の歴史において、反ユダヤ主義が台頭し、ユダヤ人も文字通り迫害するようになってしまったのも事実です)。そのような事情がありながらも、パウロはあえて「ねたみ」という言葉を使い、これを梃子にしてここから議論を進めていくことになります。
20節で神は異邦人に対してご自身を現したとあるのに対して、21節では、反抗的なイスラエルに対して一日中手を指し伸べたと言われています(イザヤ65章1節)。申命記でモーセは、「異邦人によるイスラエルの裁きには制限が加えられる。それは異邦人が自力でイスラエルを破ったと勘違いしないためだ」と語っています。それはそうなのですが、本質はそのような「計算」以前に、神のイスラエルに対する熱い思いがあるのは言うまでもありません。それが、手を差し伸べたという表現です。この「差し伸べた」はアオリスト形なので、神の決定的・確定的な行動を表しています。熱い思いの表現なのですが、時に「主の御手が重くのしかかっていた」というような裁きの表現になることもあります。裁きと救いが矛盾しながらも一つである(両義的な)ものと解釈できます。この両義的な事態こそ、まさに十字架において極められました。神は十字架のキリストにおいてその御手を差し伸べられました。それはまずはイスラエルに向けられましたが、彼らの中の多くの者にとっては厳しいものでした。この「御手」は今後どのように働くのでしょうか。11章に続きます。