礼拝メッセージ要約
2024年1月26日 「救いについての結論」
ローマ書10章
8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
パウロは、ここまで論じてきた事柄から、簡潔な結論を引き出します。すなわち「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」という偉大な真理です。もちろん、ここでの文脈だけで言えば、この「だれでも」はユダヤ人とギリシヤ人双方を直接指します。言い換えれば、モーセ律法とは無関係に救われるということです。無関係なのですから、当然、ギリシヤ人に限らず人種や宗教とも無関係です。さらに言えば、同じ人種・宗教の中に存在する階級や性別など、あらゆる要素とも関係なく、結局「だれでも」は、文字通り「だれでも」ということになるでしょう。しかし、一旦「だれでも」というように一般化されると、そのインパクトが逆に見えにくくなるので要注意です。今回は、この点と14節15節にある「宣教」のテーマとの関連から、問題の本質を見ていきましょう。
まず「御名を呼び求める」とはどのようなことかが問題となります。14節15節を見ると、とりあえず普通の意味で「呼ぶ」ということが考えられています。自分がだれか他の人の名を呼ぶというように。もちろん、呼ぶのは答えてもらうためです(すなわち救ってもらうためです)。救ってくれると思わなければ(信じなければ)呼びませんし、そもそも呼びかける対象が分からなければ始まりません。その対象を教えてくれる者(伝えてくれる者)が必要なのも当然です。つまり宣教が必要なので、それに携わる者(足)は立派だということです。この流れを理解することは容易でしょう。しかし、一見容易なものは要注意です。
この流れは、しばしば次のような「律法主義的な話」にすり替わってしまいます。すなわち、宣教を、律法(キリスト教のメッセージ)を人に伝えることと捉え、そのメッセージを聞いた人がそれを信じ、その信仰内容を告白するというようなパターンです。伝わる内容がユダヤ教からキリスト教に代わっただけの話で、これでは、ここまでローマ書を読んできた意味がありません。「主の御名を呼ぶ」ことと、キリスト教の信条を告白をすることは同じではありません。同じでないどころか、場合によっては(律法主義的なキリスト教に陥った場合は)正反対のものにさえなるのです。「名を呼ぶ(人に呼び掛ける)」行為は、日常的な対人行為として理解するのは簡単でしょう。そこに頼りたい人がいて、その人に声をかけるという行為です。これと似ていていながら異なるのは会社に就職する場合です。まず会社の評判を聞いたり、業務内容や業績を調べたりします。その上で試験を受け、合格したならば就業規則等を守る誓約書に署名して業務に取り掛かります。この「会社」を「教会」に置き換えたのが律法主義的キリスト教です。(キリスト教に限らず、多くの宗教がそうでしょう。終身雇用か転職が容易かの違いはあるでしょうが)。
しかし、そのようなことはもはや必要なくなったというのが福音です。私たちは、どこにも「就職」することなく、直(じか)にキリストご自身とつながることができるのです。前節で、「口」や「心」を引き合いにだして「近さ」を強調していたのは、距離が「近い」というよりも、その関係が「直(じか)」であることを伝えるためです。直というのは距離がないということで、いわゆる「相互内在」の関係を表しています。人に呼び掛けることはわかりやすいのに、キリストに呼び掛けるのが難しく感じられるのは、もちろん、相手が目に見えないからでもありますが、それ以上に、相手が「直に」関わるお方だからでしょう。キリストはただの人間ではないのですから当然なのですが、これが分かりにくいために、話が就職のパターンに変質してしまうのでしょう。(社長には会えないが、会社の一員ではあるというような)。聖なる神と罪ある人間という、最も「直に」つながるはずのない両者が、十字架によってつながるというのが福音なのですが、このような逆説的な関係は、たしかに「躓きの石」でもあります。
そのような福音の性格そのものが伝えられなければなりません。パウロが引用しているのはイザヤの預言で、「良いことの知らせ」とは「福音」のことです。イザヤの場合は捕囚からの解放という「福音」ですが、パウロでは、罪と律法からの解放です。罪だけではなく律法というのが、これまで繰り返してきたようにポイントなのです。ですから、私たちは律法からの解放という立場から、この一見「容易な」言葉を再吟味しなければなりません。キリストというお方を呼ぶのですが、それは「信じたお方」です。「聞いたので信じた」のですが、何を聞いたのかが問題です。それは、キリストの名(あるいはその存在)であって、何かの教えや教条ではありません。パウロ自身、キリストの名は(話として)以前から知っていましたが、それで信じたのではなく、キリストご自身が現れ(迫り)、パウロに迫ったから信じました。キリストについての真実を聞くのはその後です。(時系列ではなく質の問題です)。つまり、キリストとの出会いと信頼は、事実として素晴らしい出来事ですが、それが単なる一時的、個人的な体験ではなく、世界を変える福音であることを後から、継続的に学んでいくのです。そして、その学びには、人から伝えられるという要素も必要でしょう。しかし、それも含めて、この全プロセスは、人ではなく聖霊の働きによって実現します。
この聖霊の働きの中で、人に求められることは何でしょう? まず聖霊の働きを祈ることです。そして、その働きを妨げないことです。キリストは、ご自身の仕方で人々に接します。私たちはそれを見抜くことが求められます。その上で、福音(律法ではなく聖霊の恵み)を語ることです。聖霊の働きは多様で人智を超えていますが、それが漠然とした体験に終わることのないように、具体的に神のご計画を伝えることが必要です。繰り返しますが、ご計画とは律法的なシステムや図式的な歴史観ではなく、律法からの解放と神の恵みによる直接統治の現実です。それをローマ書(そして他の新約文書)が語っているのです。ですから結論は単純で、聖書を聖霊の導きで語るということです。
このように、すべては聖霊の働きの中で起こるのですから、「主の御名を呼ぶこと」自体も、聖霊によることになります。「聖霊によらなければイエスを主と呼ぶことはできない」とある通りです。もちろん、聖霊抜きで機械的に「イエスは主」と言うことはできますが、それではAIと同じになってしまうでしょう。そもそも、罪(社会的な罪より深い根源的な罪)を認めることも聖霊によります。ですから、聖霊によって救いの必要性を悟った人が聖霊によって主の名を呼び求めるのです。そして、聖霊によって復活のキリストが啓示され、私たちは神との相互内在へと導かれるのです。