礼拝メッセージ要約
2024年1月19日 「信仰と告白」
ローマ書10章
8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
モーセ律法では、人々の口や心に律法があるとされていましたが、今やそれは福音のことばに転換されました。福音のことばは、信仰のことばとも呼ばれています。律法のことばと信仰のことばは、どちらも同じ場所に与えられているのに、全く異なるとすれば、その違いはどこにあるのでしょうか。違いは、少なくとも表面的には、行動と信仰の違いで、外面と内面の違いとも見えます。8節と9節がどうつながるのかが問題となるのですが、まずは9節以下を読んでいきます。
9節は、当時(教会時代初期)に用いられていた信仰告白の文(の一つ)であると言われています。このような文は、例えば第一コリント書15章などにもあり、単純で短いものから長めのものまであります。後に、このような文が、洗礼式の時に用いられるより、信徒とそうでない人とを区別するための指標とされるようにもなりました。このような流れは、結果的に見れば、福音の律法化であり、明らかな後退と言えます。なぜなら、それでは、ユダヤ教の根本定式である「イスラエルよ、聞け、あなたの神は唯一の主である」から始まる式文が、「イエスは主」という式文に代わっただけのことになってしまうからです。(このような定式によって入信させる宗教は他にもいろいろあり、代表的なものとしてはイスラム教があります)。このような「律法化」(宗教化)が、福音の本質に反していることを、ここまで繰り返し学んできました。ですから、まずは、「宗教」抜きに、パウロのことばを読んでいくことが大切です。
9節の訳し方は複数あります。「イエスを主と告白する」(上記)、「イエスは主であると告白する」、「主イエスを告白する」などです。微妙にニュアンスは異なりますが、それは「告白」という言葉の内容次第の所があります。ギリシャ語の「告白する」は基本的に「同意して同じ事を言う」という意味です。その場合、「イエスは主である」という福音のメッセージに同意し、自分もそれを告白する(同じ事を言う)という意味になります。いわゆる信仰告白という形です。ただし、このギリシャ語に対応するへブル語では、告白だけで賛美、感謝という意味があるので、その場合は、主イエスというお方そのものを告白、賛美するという意味に理解する方がふさわしいでしょう。ここでは、あえてどちらかを選ぶ必要はないでしょう。前者は知的な理解が前提ですが、それだけでなく後者の「全人的な」態度が重要なことは言うまでもありません。この「全人的な」要素を強調するために、「イエスを私の主である」というように、私を挿入する理解の仕方もあります。「イエスは主」自体は一般論なので、自分の「主(あるじ)」として告白するのは重要で必要なことでもありますが、ここでは原文にプラスした読み方と言えるでしょう。
ちなみに「主」にもいろいろな意味がありますが、元来ユダヤ的な言葉であるキリスト(メシヤ)が、異邦人世界ではイエス・キリストという形で、固有名詞の一部同然に扱われるようになったため、代わりに「主」が使われるようになったという経緯があります。ですから、「イエスはキリスト」と「イエスは主」とは実質同じことを指しているのですが、キリスト(メシヤ)はユダヤ的背景があり、「主」はギリシャ的な背景があるという、背景の違いはあります。このことから、ひとつの重要な事柄が導かれます。「キリスト」「主」という言葉の概念は多様なので、単に告白文を唱えただけでは、それが何を意味しているのかは確定しないということです。ユダヤ人とギリシャ人の違いだけでなく、今日でも西洋人と日本人ではニュアンスの違いがあるのです。私たちは、ユダヤ人やギリシャ人になって救われるのではないのですから、これは当然なのですが、しばしば忘れられてしまいます。このことからも、イエスがだれであるかという定義よりも、現実にキリストとつながるのが本質であることがわかります。
このことから次の部分に導かれます。「神はイエスを死者の中から起こした(直訳)と心で信じる」という部分です。すでに4章で同様のことが「アブラハムの信仰」の真の姿として言われていました。キリストの復活は、特に初期においては、神がキリストを復活させたという形が基本でした。「主はよみがえられた」というキリストが主語の文と比べて神が主語になっているところがユダヤ的(伝統的)だとも言えます。とは言え、これも「復活」が歴史的な出来事(空になった墓などの出来事)としてのみ捉え、単にその出来事が事実であると信じるというのだけでは、ローマ書の本筋から離れてしまいます。(歴史的事実の検証は際限なく続きますが、私たちの信仰はそのようなものに依存しているのではありません)。あくまでも、生きて働いておられるキリストとつながることが本質であることは言うまでもないでしょう。
「心で信じる」のは、ある意味で当然です。(他の信じ方はないでしょう)。口で告白というのも同様に当然です。ここでしばしば「口」と「心」の両面が必要であるという論議がされます。もちろん、心にもないことを口先だけで言ったり、信じると言っても、同意も賛美もない勝手な信心を持ったりしているだけではだめなことは当然です。ただ、ここで口と心が併記されているのは、律法の原文との対応という部分が主たる理由であることは重要でしょう。すなわち、それは「遠くにあるのではなく、今ここにあるので、実現可能だ」ということを強調するための表現なのです。よくある理解はこうでしょう。口で「イエスはキリストである」という定式を人前で言い表し、心で「キリストの復活という出来事が事実である」と信じるのがクリスチャンであるというものです。間違いではありませんが、ここでの強調点はやや異なります。律法と同等、あるいはそれ以上にキリストは身近におられ、しかもそれは律法のような文字としてではなく、生きて働いておられるお方であるということが、ここでパウロが言おうとしていることなのです。
前節で読んだように、今や「キリストご自身」が私たちと相互内在されています。あえて分類するなら、私たちに内在しておられるキリストにつながりっていることが「心に信じる」ことで、キリストに内在していること(キリストがわたしたちを包んでおられること)の表現が「口で告白する」ことだとも言えるでしょう。(キリストと私たちが一体である以上、あまりこのような区分は意味がありませんが)。今一度ここまでを振り返るなら、キリストの復活を信じる(4章)、アダムからキリストへ(5章)、キリストのバプテスマ(6章)、律法からの解放(7章)、聖霊による解放(キリスト、聖霊との相互内在)という流れが福音そのものです。この福音への応答が、心で信じ、口で告白することであり、そのすべては神の恵みに他なりません。