礼拝メッセージ要約
2024年1月12日 「大転換」
ローマ書10章
1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
キリストが律法を終わらせた以上、それ以前と以後では律法に関するすべてが変わりました。しかし、その変化はあまりにも大きな大転換なので、聖書の読み方さえも影響を受けたのです。前節では、ホセヤとイザヤの二つの預言が突き合わされて、異邦人の救いという、新しい結論が導きされました。この場合、確かに結論は飛躍していましたが、二つの預言の突き合わせ自体は伝統的な手法でした。しかし、「大転換」の影響は大きく、5節以降の箇所では、さらに驚くような読み方が提唱されています。ここでは、もはや、聖書の光でキリストについて語るのではなく、キリストの光で聖書を語っているのです。このような読み方を受け入れるかどうかは、結局キリストと出会うかどうかによって決まるのでしょう。
パウロはまず5節で、レビ記18章5節を引用しています。律法を行う者はそれによって生きるという、ユダヤ教の根本とも言える文です。つまり「律法による義」です。パウロは、このような文があるのを完全に認めた上で、なんと別の種類の義、すなわち信仰による義があるのだと主張します。(そもそもそれがローマ書の主題でもあります)。この二つの「義」は明らかに対立していますから、これをどう理解すべきなのかが問題となります。そこでパウロは聖書を引用するのですが、この引用は衝撃的なのでよく読む必要があります。
その引用とは、申命記30章11節〜14節のことばです。この箇所が語るのは、律法は実行可能だということです。可能どころか、行うのは易しいというのです。以下に引用します。
11「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない」とある通りです。
12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。
一読しただけで、パウロの話と真逆であることがわかるでしょう。律法はユダヤ人の口にあり、心にある身近なものなのだから実行可能だという話です。身近であることの例えとして、天にあるのでも、海のかなたにあるのでもないのだから、わざわざ取りにいく必要がないと言われています。
パウロはこの箇所を引用するにあたって、大幅に簡略化と意味の転換を行っています。天に言って律法を取ってこようというのを、天に言ってキリストを引きずり下ろすという話に変えています。また海の彼方に渡る話は、よみに下る話となっています。確かにユダヤ教では「海」を、「上にある天」の反対物である混沌である「深淵(アビュス)とする見方もありましたから、パウロはその読みをしたのでしょう。問題はここでも、取りに行くものが律法ではなくキリストとなっていることです。結論から言えば、律法がキリストに転換したという、ある意味では単純な話です。しかし、やはりそのような読み替えは大胆なものです。この読み替えを追っていきます。
パウロは原文にある「天」と「海(深淵)」を、単なる遠い場所の例えではなく、まず文字通りに読みます。その結果、両者も「遠さ」は物理的なものを超えて、究極的な遠さ(極限)となります。その極限において何が見えるでしょうか。詩編139編8節にあるように、それは神の臨在です。いわゆる神の遍在であり、それが神の御霊とも呼ばれています。もちろん、この詩編の作者は実際に天に上ったり、よみに下ったりしたわけではありません。しかし、キリストご自身においては、十字架と復活によって、それが実現しました。その結果、天に上るのも、よみに下るのも、遍在のキリスト(あるいはキリストの御霊)の所に行くことになったのです。その上で、私たちはそこに行く必要がないという、申命記原文の結論にたどりつきます。このように、出発点と到着点は同じなのに、その中身は律法からキリストに大転換しているのです。
それにしても、申命記では、律法の実行は易しいとあるのに、新約聖書の他の箇所(例えばガラテヤ書)では、律法の実行は不可能と言われていうのはどういうことなのでしょうか。律法は実行可能なのか不可能なのか? よくある答えは、「ある程度は可能だが完全にはできない」というものです。そして、パウロは、「律法のうち一つを破るのは律法全体を破ることになる」という主張を根拠に、「実行不可能」と結論づけていると言われます。そして、そのような主張に対して、ユダヤ教側は、それは極論で律法全体の主旨に反しているし、先程の申命記の言葉とも相いれないと言います。しかし、以上のような主張対反論は的を外していると思われます。なぜなら、「律法の実行」という言葉自体にいろいろな意味があり、それ次第で実行可能であったり不可能であったりするからです。ひとつを守るか全部を守るかという数の問題以前に、何をもって「守った」と言えるのかということです。
総じて言えば、規則は具体的なほうが守りやすいです。それで、律法にはさらに多くの実施規則が加わっています。そして、当然、違反に対する処置や罰則もあります。法律ですから行動を規制するのですが、もちろん心も重要視されています。ただし、心の状態も透視できないので、行動で判断することになります。律法による義は、そのようなあり方全体のことなので、それ自体実行不可能ではありません。具体化のプロセスは時代と共に進展しますから、基本的には、その歩みを続ける限り無効とはならないでしょう。「律法による義」とは要するに法治主義のことなので、現代こそ改めて必要であり、社会の規範であるべきなのです。しかし、それとは別に「信仰による義」があるというのがローマ書のメッセージです。この義は、律法による義を超える義です。すなわち、律法によって不義とされた者を「義とする」ことができる義です。「義化する義」と言えるでしょう。言い換えると「罪人を救う」救いです。そして、実はこれこそが律法本来の精神(スピリット)だというのが新約の福音です。律法はそれ自体で完結した法体系ではなく、生ける神のことば(いのちを与える霊)の表現であったのです。律法の終わりは律法の完成でもある所以です。そして、今やキリストによってそれが実現しました。ですから、法体系としての律法であれば実行可能であり、律法を超える「いのちの御霊」すなわち聖霊の律法であるなら、それは人には自力では実行不可能です。それなのに、人は「法治主義」の徹底に熱をあげるあまり、進めば進むほど、御霊の律法から離れ、新時代をもたらすキリストを排斥するようになってしまうのです。しかし、キリストは遠くにおられるのではありません。十字架のお方として、今ここに生きておられるのです。