礼拝メッセージ要約
2024年1月5日 「熱心」
ローマ書10章
1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10章は9章に続いて、パウロは同胞についての思いが語られています。すなわち、「彼らの救われること」です。2節でパウロは、彼ら(ユダヤ人)が神に対して熱心であることを認めています。直訳は「神の熱心を持っている」です。神に関する熱心を持っているとも訳せるでしょう。問題はその熱心の実質的な内容です。彼らの場合、それが「知識」に基づいていないというのです。当時のユダヤ社会では、パリサイ派の人たちは、律法の実践と称して、非常に熱心に生活規範の実現を追及していました。さらにそれが先鋭化したのが「熱心党」と呼ばれる人たちで、その「実践」のためなら武力も辞さない過激派でした。ユダヤ人の律法実現を邪魔する者であれば、ローマ人のみならず、同胞のユダヤ人さえ攻撃していたのです。もちろん、そんな彼らも、自分たちはそのような行動によって神に仕えていると自称していたのです。パウロ自身は熱心党員ではなかったものの、キリスト者を弾圧することにかけては、やはり非常に熱心でした。
一般論としても、この「知識なき熱心」が危険であることは言うまでもありません。ハンドルもブレーキもなく、アクセルだけで進み続ければ、遅かれ早かれ暴走の果てに破滅するのは当然でしょう。もっとも、そのような彼らも、自分たちはハンドルもブレーキもちゃんとコントロールできると過信してことが多いのが問題でしょう。その場合、彼らは実際には車や道路、法律についての理解が足りない上で、自分自身をも誤解しているという致命的な状況にあるのです。「知識がない」というのは、知識がないことすら自覚していないということも含みます。これは、情報があふれているにもかかわらず、何が本当なのか判断できない現代において深刻な問題です。そして、そのような情報に溺れている反動で、SNSなどによって容易に扇動されてしまう、大変危うい社会状況になっています。
ローマ書のテーマに戻ります。ここで使われている「知識」という言葉は、単に情報を持っているという知識ではなく、それを超えた知識、すなわち物事の本質を見抜く認識を指しています。律法主義者たちは、律法に関する知識は持っていたものの、律法の本質を掴む「認識」は持っていなかったのです。言い換えると、彼らの律法実践は、律法の本質から外れていたということです。ただし、問題は、彼らの理解が表面的だったいうことだけではありません。多くの場合、表面的な理解は表面的な実践にしかつながらず、何の実も結ばず終わってしまいます。しかし、彼らの場合は、なぜか「表面的な理解」が熱心を生み出しているのです。それも尋常ではない熱心です。しかも、その熱心とは「神に関する熱心」なのです。この熱心は、一般的な意味での信仰と同義でしょうから、「知識なき熱心な信徒」とも呼べるでしょう。これは、ある意味では、よくある話でもあります。あまり知識がなければ、ものごとを単純化してしか見られないため、行動の単純化することができ、エネルギーを集中することができるからです。これまで情報が制限された社会で多く見られましたし、現代でもそのような社会はあります。同時に情報化時代に生きる私たちの間でも陰謀論が流行ったり、SNSで安易に扇動されたりするのも、根は同じです。いくら情報が多くても、いや、多いからこそ、人々は自分の見たいものだけを見るのです。
パウロの語っている「知識なき宗教的熱心」は律法についての表面的理解と適用です。それが暴力にまで進展する危険な熱心になるのはどうしてでしょうか。これもある意味では当然です。律法とは社会や個人の行動規範だからです。規範の中には、それから外れるものを排除するという要素が必ずあります。ここまで何度も繰り返してきとように、規範は良いもので必要です。それなしには社会も個人もなりたちません。しかし、規範が排除の論理を持つのは宿命なのです。例えば、今日の西側諸国で言われている「少数者の人権を尊重する」という考えです。その考え自体は正しいのですか、それが「マイノリティー至上主義者」となると、彼らの意見に異論を唱える者を徹底的に排除しようとします。そして、保守とリベラルの果てしない戦いが展開していくのです。私たちは、ここまでローマ書(特に7章)で学んだ、この「律法の二面性」(良いものを通して悪が増長するという事実)を心底かみしめる必要があります。この「二面性」を認識せずに律法を実践するのが「彼らの知識によらない熱心」なのです。
これは何も当時のユダヤ人に限った話ではありません。キリスト者でも律法主義に陥れば同じ過ちを犯す危険があります。ユダヤ教の規範がキリスト教のそれに代わっただけでは何も始まりません。4節に「キリストは律法を終わらせた」とあるのは、あらゆる「律法」について言っているのであって、ユダヤ教を終わらせてキリスト教になったという意味ではないのです。4節は不思議な文章で動詞がありません。ただ、「律法の終わり」「キリスト」「すべての信じるものに」という単語が並んでいるだけです。単純ですが福音のエッセンスともいえるものです。この「終わり」は単純に「終わり(終焉)」とも「目的」とも訳せる言葉なので、これも議論になります。ガラテヤ書は「終焉」を強調しているのに対して、マタイ福音書は「目的(完成)」に重きを置いています。どちらかと言うと前者はプロテスタント的、後者はカトリック的とも言われます。しかしローマ書としては、それは意味のない対立でしょう。もし律法を律法主義者の意味でとるなら、それは終焉であり、福音の立場で理解するならそれは完成だからです。いずれにしても、結果としては「卒業」してのですから、私たちはもはや「律法の下にはいない」のです。
3節では「自分自身の義」と「神の義」が対比されていています。前者を行い、後者を信仰と読み替えることが一般的です。もちろん結論はそうなのですが、問題は前者も「神の義」を追及していると思っている点です。このことについてはすでに、神に対しての義と神ご自身の義の違いという観点で学びました。今回の論点は「熱心」です。前者が熱心なのは分かりましたが、後者の熱心、すなわち正しい熱心とは何でしょうか。それが「神の熱心」であるのは、神の義からくるものである以上当然でしょう。(2節の原語も神の熱心でしたが、律法主義者の場合は神に対する熱心であり、福音の場合は文字通り神ご自身の熱心です)。この神ご自身の熱心については、旧約でも語られています。神のイスラエルに対する熱い思いは彼らの原点でしょう。その神の思いを受けているのであれば、律法に対して熱心になるのは当然ではないかというのが彼らの論法であり、それ自体は間違ってはいません。間違っているのは、まず律法の本質を認識していないことであり、その結果、彼らが熱心になればなるほど神の熱心から離れていってしまうという悲劇です。これは、俗にいう行いと信仰の対比とは次元の異なる問題です。律法の規定を守ることと、信条を信じることの対比ではなく、律法から聖霊への根本的な転換が必要なのです。これは「規範」から「自由」への転換です。その自由が、規範(律法)を超えているのか、それとも超えるどころか、それ以下に堕落してしまっているのかが問題です。肉によれば堕落し聖霊によれば超えるのです。そして、この聖霊の恵みは、すべて主の名を呼ぶ者に約束されているのです。