礼拝メッセージ要約

20241229日 「義を追い求めること」

 

ローマ書9

30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。 

31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。 

32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。 

33 それは、こう書かれているとおりです。

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。

彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 

ローマ書9章の結びの部分を読みます。「義を追い求めなかった異邦人は義を得」とあるのは、前節のテーマである「わたしの民ではないものをわたしの民とする」神のわざを言い換えたものです。ここで異邦人は義を追い求めなかった存在と呼ばれています。(もちろんこれは、ユダヤ人としてのパウロの言い方ですから、異邦人である日本人には要検討のことがらでしょう)。今年を締めくくるにあたって、「義を追い求めている」ということについて検討しましょう。(当然、一般論はなく、それぞれ自分のこととしても問うことが重要です)。

 

まず、パウロの時代のことを簡単に確認しておきます。ローマ書の背景にあるギリシャ・ローマ世界で「義」と言えば、彼らの神々や社会に対して義務を果たし、社会の調和を維持することを意味していました。つまり、義とは正義であり忠義のことで、おそらく時代や文化を超えて、かなり普遍的な概念であると思われます。それはユダヤでも基本的には変わりありません。ですから、その意味では、「異邦人は義など求めない」とは言えないでしょう。彼らには彼らなりの義があるのです。ここで、まずは一般的な判断(旧約的判断も同等)をします。義すなわち忠誠心はあっても、それが何に対してなのかが問題だという判断です。要するに、ユダヤ人はモーセ律法に忠誠であり、ギリシャ人は彼らの神々に忠誠ということで、いわばユダヤ版の義とギリシャ版の義があり、そのうえで、ユダヤ版の忠誠が正しいとするものです。従って、ギリシャ的な義は、間違った対象に向けられた間違った義なので、実質的に義を追い求めていなかったことになるのです。これを、さらに一般的な表現にすると、「諸宗教(例えばギリシャ)はそれぞれ自分を正しいとするが、正しいのはユダヤ教のみだ」となります。

 

このような「一般的判断」はごく普通のもので、多くの宗教の信者はそう信じているでしょうし、逆に宗教に批判的な人は、それだから宗教は独善的で信じられないということになるでしょう。パウロの言明を同様に解釈される危険があります。しかし、この一般的判断が成立するのは、ユダヤ側のアプローチ(すなわちモーセ律法への忠誠)が正しいとする場合であって、パウロはまさにそのことを否定しているのです。律法主義者は、ある意味では義を追い求めていましたが、義を得ることはできませんでした。少なくとも、彼らのアプロ―チがギリシャ人のアプローチに勝っていたことにはなりません。(言い換えると、ユダヤ教が正しく、ギリシャ宗教が間違いだという結論にはなりません)。しかし、ここで次の問題に突き当たります。

 

彼ら(律法主義者)が失敗したのは、単に追及の方法が間違っていたのか、それとも、彼らが追及していた義そのものが間違っていたのかという問題です。パウロの結論はその両方でしょう。しかし、ここはよく理解することが必要です。まず、間違っていたのは追及の方法である場合です。「義」が神への従順であるとして、その従順の方法が間違っていたという場合、それは何を意味しているのでしょうか? モーセ律法を実践するということそのものが間違っていたのでしょうか? これには二つの答えが予想されます。一つはYesでキリスト教側からのものです。そもそもモーセ律法を実践することは無駄だという主張です。とすると、旧約の時代には義に至る道はなかったという結論になります。もう一つはNoで、モーセ律法の実践そのものは有効なのだが、それを自己義認の手段とみなした態度が間違っていたというものです。これはユダヤ教内部での見解となります。この二つの見解は明らかに異なっていて、宗教(ユダヤ教とキリスト教)との差にまでつながる重大な相違です。それにもかかわらず、パウロの言葉には両者が含まれているので、様々な異論が起こってくるのです。

 

この矛盾・困難は、問題を追及の方法に限定していることから発生します。本当の問題は、追及の方法以前に、そもそも人々が追求している(つもりの)義とは何かなのです。というより、方法と目的(義)は一体のものです。福音の中心メッセージは「神の義」です。もちろん「人の義」と対照されるものです。ユダヤ・ギリシャ共に、神への忠誠が義であるという前提がありますが、それは言うまでもなく「人の義」です。神に関する人の義で、いわば宗教的な義と言えるでしょう。人の関心が人にあるのはある意味当然でしょう。ですから、極言すれば、人が自分自身に関心を持っているのだから、何も神を引き合いにだす必要などないのです。引き合いにだすのは、自分(あるいはその集団)を正当化するためでしょう。宗教が批判される所以です。人の義はもちろん大切で、それなしはまともな社会を維持することはできません。宗教(律法)は必要です。しかし、それを神の義と勝手に同一視することが間違っているのです。

 

「神の義」とは「神の正義・神の正しさ」ですが、これまでも繰り返し見てきたように、それは「道」と呼ばれるべきものです。あわれみが裁きに優り、いのちが死に打ち勝つ世界であり、その活きた歩みが神の道です。問題は、この「神の道」と「人の道」がどう関係するかという点です。「神の道にならうのが人の道だ」というのは簡単ですが、それが前述の「律法・宗教」と同じになってしまうのであれば意味がありません。「神の義」と「人の義」が区別できるのかできないのかが問題なのです。言い換えると、神の義と人の義が連続しているのか断絶しているのかということです。福音はそれが「断絶」であると告げます。今回の聖書箇所で「つまずきの石」と言われている所以です。ここでも問題があります。この「断絶」の意味です。一つはユダヤ教やキリスト教に見られる一般的なもので、神の道は人の道よりはるかに高いという意味での断絶です。その断絶の橋渡しをするのが宗教で、ユダヤ教ならモーセ律法、キリスト教ならキリスト教の信条であり、結局それは律法の世界に過ぎません。しかし、その律法の世界そのものが人の義であるというが福音の眼目なのです。

 

それに対して、福音の告げる断絶は正真正銘の断絶であり、人の義を否定するものです。それは人にとってはつまずき以外何物でもありません。しかし、これも容易に悪用される可能性があります。すなわち、カルト集団が人の義(倫理・道徳)を否定し、人をコントロールする危険です。もちろん、これは、いわゆるカルト的宗教団体に限らず国家も含めてどこにでも起こりえます。ですから、パウロは「律法は聖であり正しい」と言っているのです。ここに福音の逆説的な性格が表れています。一方では「神の義は人の義を否定している」と同時に「人の義(律法)は正しい」としている逆説です。私たちはこの相反する二つが同時に成立している世界に招かれています。そして、それはこの問題を単に論理的に考えること自体がゴールなのではなく、この逆説を踏み台として飛躍することが求められています。

 

その飛躍とは、徹底的に神の恵みの世界に入るということです。恵みとは「与えられているもの」であり「受け取るもの」です。そして、その「恵み」に律法を介入させないこと、すなわち「一旦は」律法(すなわち宗教)が否定されなければなりません。その上で、神の恵みの全面的な支配に律法(宗教)をゆだねるのです。その時に宗教はカルト化されることはなく、むしろ相対化されます。すなわち、宗教ではなく神ご自身が恵みによって支配されるのです。それが神の国であり、主の名を呼ぶ者は皆救われるのです。