礼拝メッセージ要約

20241215日 「旅立ち」

 

ローマ書9

24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 

25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。

「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

29 また、イザヤがこう預言したとおりです。

「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

 

前回学んだように、25節にあるホセアの預言は、元々はヤハウェがイスラエルの民に向かって、その回復を予告する言葉でした。そこで「わが民でない者」も「愛さなかった者」も、神から離れていたイスラエルを指し、そのような反逆の民を神があくまでも愛し、回復をするというものです。しかし、福音の到来によって、その意味は転換し、「わが民でない者」は、文字通り「主の民でない者」すなわち異邦人を指すこととなったのです。この解釈はある意味では飛躍ですが、別の意味では、預言を文字通り受け取った「ストレート」な解釈でもあります。これは、もちろん聖霊の導きでなされたものですが、その内実について確認する必要があります。

 

「イスラエル内のことがら(神の愛を失っている状態から神に愛されている状態への転換)」が、イスラエルを超えたことがら(イスラエル限定の祝福から異邦人を含む祝福への転換)に「変容」できたのは、前回学んだ「複数の預言をつきあわせた」解釈が可能だからです。このような複合的な解釈は、預言に限るものではありません。というより、特定の言葉をいろいろと並べて律法的に解釈するのではなく、もっと聖書全体を、その精神(スピリット)から一気に読み取るのです。「律法的に解釈する」というのは、合理的、法律的に解釈することで、それは決して悪いものではありません。複数の条文をばらばらに、機械的に解釈するのではなく、それらを突き合わせ、全体を合理的に解釈しようとすることです。それは、宗教のレベルと政治・行政のレベルで行われます。今日の日本では、政教分離原則があるので両者は別々の人が担っていますが、言うまでもなく、古代イスラエルでは(そして現代のイスラム教国などでも)両者は一体でした。ですから、律法的アプローチは、社会を合理的に律するための土台とも言えるのです。

 

社会を律するためのものですから、結局、解釈の目的は適切な律法・行政を行うためのものです。それは、元来霊的な事柄、救いや永遠のいのちなどを扱うものではありません。ですから、仮に異邦人をイスラエルに加えるという話になったとしても、それは、いかなる手続が必要かという話にしかならないのです。ユダヤ人と異邦人を貫いて働いている「いのちの御霊」など眼中にないのはやむを得ないことでしょう。

 

このようなアプローチに対して、霊的・福音的アプローチは、ものごとを社会の尺度ではなく、神の観点から解釈するものです。と言っても、人間が勝手に神に成り代わって語るというのとはありません。反対に、人間が人間に徹するのです。すなわち、人種、宗教、社会的地位など、一切の「属性」などで規定される以前の、「生身の一人の存在」そのものとして神の前に立つということです。それは、創世記から始まる聖書本来のありかたです。「ひとりの神」が「ひとりの人」を創造したというのは、単なる昔の話ではありません。創造主と被造物の関係は外から観察することはできず、被造物の内側からしかとらえることしかできないのですから、それは自分ひとりの内側から神に対するしかありません。(そうでなければ、それは他人事としての宗教にすぎないでしょう)。そこにおいて(神の前で)、人の様々な属性など二次的であるのは明らかでしょう。

 

はじめのアダムは堕落しましたが、改めて神と人との関係を捉えなおすために生まれたのがアブラハムです。彼は「故郷」を離れ神の示す場所に「旅立つ」ように命じられました。(彼のアイデンティティを構成する属性によらない人生を歩めということです)。この「命令」は、ユダヤ教においても重要な部分なのですが、ポイントはその命令自体にあります。この命令の言葉は不思議な表現で、「行け」という命令に続いて「あなた自身に」という言葉が続いています。アブラハムが命じられたのは、単なる故郷から新しい場所(カナンの地)への引っ越しではなく、本来の自分に向かっての旅立ちなのです。(これはユダヤ教での見解でもあります)。現実には、アブラハムは彼ひとりではなく、様々なものを連れて出かけました。彼の従順は部分的であり、引っ越しだけでは彼本来の自分に達しませんでした。あくまでも信仰にある旅人だったのです。

 

ここに、聖書の精神であり、本来はユダヤ教においても根本的なテーマであった「旅立ち・道」の内実があります。すなわち、神のことばによって、生まれつきの自分から旅立ち、本来の自分に帰るという旅です。神が古代のイスラエルに度々語りかけた「わたしのもとに帰れ」という言葉も、このアブラハムの精神から理解されなければなりません。律法主義者は、それを単に律法の戒めを厳守せよとしか理解できません。しかし、神に帰ることはアブラハムの信仰に帰ることであり、それは自分に向かって旅立つことでもあるのです。そして、この神の語りかけは、ついにキリストの到来によって具体的に実現することになりました。この道を進むのか、それともアブラハムを単なる「引っ越しの元祖」におとしめ、引っ越し先での立法・行政の問題(律法問題)にしてしまうのかが問われているのです。この「神のことばによる道」が聖書・ユダヤの信仰の根本であり、パウロはあくまでもその立場で語っています。彼は生粋のユダヤ人であり、同胞のユダヤ人に向かって「本来の姿に帰れ」と叫んでいるのです。

 

イスラエルがアブラハムの子孫であるならば、彼らは「旅立ち」をしなければなりません。すなわち、彼らもアブラハム同様、「故郷」から旅立たなければならないのです。それは必ずしも「引っ越し」を伴う必要はないでしょう。引っ越しでも、そこに故郷と同じ環境を作るのであれば意味はありません。反対に、引っ越し先に同化するのでもありません。旅立ちとは、環境や属性の維持や変化のことではないのです。パウロは文字通りの旅をしましたが、本質は旅以前に「異邦人への使徒」とされたことです。彼は「ユダヤ人」から旅立ったのです。しかしそれはユダヤ人をやめるためではなく、本来のユダヤ人となるためでした。それは、聖書本体のスピリットであり、今や聖霊によって実現されたのです。

 

ですから、この「旅立ち」は彼だけのものではありません。それどころか、単に「ユダヤ人から異邦人へ」という転換に留まるものでもありません。天に国籍があり、地上では旅人である私たちすべての事柄であり、その「旅立ち」は様々な形をとるでしょう。その根底には、「わたしの民ではないものをわたしの民とする」という神のことば・スピリットがあります。この「旅立ち」は考え方(世界観)の抜本的な転換を意味します。それがすなわち、「悔い改め」と訳されている「メタノイア」に他なりません。ですから、旧約から新約への飛躍・転換は、ただ歴史的な順序として発生したのではなく、真の「メタノイア」が実現するようになった「世界そのものの転換」であり、それは、ひとりひとりが神の前に「メタノイア」される、聖霊による出来事なのです。