礼拝メッセージ要約
2024年12月8日 「聖書を読む方向」
ローマ書9章
24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。
「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。
「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
29 また、イザヤがこう預言したとおりです。
「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
前節で、「怒りの器」対「あわれみの器」という図式が示されました。そこでは、パロに代表される異邦人側が怒りの器で、エジプトから救い出されるイスラエルがあわれみの器とされていました。その上で、怒りの器であっても神の忍耐と寛容の対象になると言われました。すなわち、「あわれみは裁きに優る」という、「トーラー」本来の姿が神の義であるという根本が宣言されているのです。この根本は、そもそも旧約時代から確立されていたはずのもので、預言者たちや、詩篇の作者の一部はそのことを告白していたのです。
その上で、パウロは「あわれみの器」の意味を変容させます。福音によって生じた「変容」です。イスラエルにしてもユダヤ人にしても、言葉の意味は固定したものではなく、文脈によって変動します。キリストの十字架と復活によって、全てが変容したのです。そもそも、物事は神の前では生きていているのですが、人間はそれを固定化しようとします。そうでないと、物事をうまく処理できないからです。しかし私たちは「生ける神」の前で生かされているのですから、神が実現される「変容」に対して開かれていなければなりません。
パウロの論点は、「あわれみの器」がユダヤ人・異邦人という枠組みではなくなったということです。結論は明確で、キリストとつながった者が「あわれみの器」なのです。反対者は、もちろんこのような論点の「飛躍」には同意しないでしょう。キリスト云々以前に、異邦人の中からも選ばれた者がいるということが受け入れられません。そのような事が可能なら、そもそもアブラハム・イサク・ヤコブという「約束の系譜」も無意味になり、ユダヤ人のみに与えられている意義も失われてしまうというのが彼らの考えです。この「考え方」自体は普通の思考方法ですから、わかりやすいものです。しかし、聖書(旧約)自体が、そのような「普通の思考」方法を超えているのであり、パウロはここでそれを示そうとしています。そこには、通常の思考からすれば「矛盾」であり「逆説」である要素があります。この「矛盾・逆説」抜きに「福音」を理解することも、受け入れることもできません。その意味でも、ここでのパウロの言葉を丁寧に読む必要があります。
パウロはここで、ホセアとイザヤの預言を引用しています。まず、分かりやすいイザヤの預言を読みます。論点は明確です。ここまで学んできた「残りの者」というテーマです。救われるのはイスラエル全てではなく残りの者だけだという主張です。(この主張をパウロは一旦受け入れますが、それが最終結論ではないというのが、ローマ書9章から11章の展開であることは、前もって記しておきます)。残りの者無しでは、イスラエルもソドムやゴモラ(不道徳の故に滅ばされた異邦人の町)と同様だという、非常に厳しい主張もされています。そうなると、イスラエルであること自体には、何ら特権的な要素はなく、ただ「残りの者」だけがあわれみを受ける(救われる)のです。すると、イスラエルの意義は、その一部に「残りの者」を存在させるだけということになるためです。(残りの者の母体としての存在価値という意味)。これは、随分と過激な主張のようにも見えるでしょう。しかし、以前にも触れたように、この残りの者という思想は、イザヤにとどまることなく継続していきます。その終着点の一つがバプテスマのヨハネであることは言うまでもありません。
ただ、イザヤの預言自体は、当時のバビロン捕囚という苦難との関連で語られているので、単純に読めば、残りの者とは、捕囚を逃れた者、あるいは捕囚を乗り越えた者という意味になるでしょう。一旦イスラエルは消滅したかに見えたものの、実は残りの者がいてイスラエルはそこから復活するという希望が語られているのです。ですから、ここからだけでは異邦人に関する福音を読み取ることはできないでしょう。28節の「全世界にたいするみことば(原文では単なることば)」も、イザヤの原文では全世界に対するさばきを指していると思われるので、残りの者の理解としては不十分です。
またパウロはホセアの預言を引用しています。これも、原文では、主から見放されたイスラエル(厳密には当時のユダ王国)が再びあわれみを受けることを語っています。ですから、そこから直接、異邦人に関する内容を読み取ることは簡単ではないでしょう。ホセアのこの預言は、イザヤの「残りの者」にような、非常に少数の者が救われるという印象とは異なり、ユダ全体が非常に豊かな福福を受けるという側面が強調されているように思われます。このように、旧約の文面を、それぞればらばらに読むだけでは、なかなか異邦人への福音が見えてはきません。しかし、パウロは上記のイザヤの預言とホセアの預言を合わせて読みます。(この読み方自体はパウロの独創ではなく伝統的なものです)。
イザヤでは、残りの者が登場します。ということは、残らない者もいることになります。そして、ポイントは、その「残らない者」に関してはユダヤ人も異邦人もない(同じだ)ということです。このポイントとホセアの預言を合わせます。すると、「わが民ではないもの」イコール「残らない者」であり、そこにはユダヤ人も異邦人も等しく含まれることになります。その彼らが、「わが民と呼ばれる」ようになるのですから、その「わが民」は当然、ユダヤ人と異邦人両方から構成されることになるでしょう。伝統的解釈によれば、「残りの者」はもともと選ばれていたはずの者の中から、真に選ばれた者が残るという、ある種の「エリート」を指しています。ところが、パウロは(すなわち福音は)全く反対の方向に話を進めているのです。すなわち、イスラエルから一切の「エリート」的要素を排除するという方向です。その上で、新しい意味でも「選び」、すなわち神の主権を語ります。その絶対的な主権が、すなわち神の民でない者を神の民とするという、絶対的な恵みです。このような「解釈の大転換」は、単なる文章解釈のことではなく、福音の光に照らされた、聖霊の働きによるのです。
その聖霊の働きのもとでは、28節の内容も大転換されます。すなわち、もともとは諸国民のさばきを告げるものであった「みことば」が、今や諸国民を救う「みことば」へと転換されるのです。このような、「解釈の大転換」を反者たちは認めないでしょう。今日にいたるまで、ユダヤ側の「反宣教団体」(キリスト教の宣教に対抗してキリスト教を否定しユダヤ教を主張する団体)は、このようなパウロや新約聖書の旧約解釈は曲解であると主張しています。それに対して、キリスト教側は、これは「霊的解釈」なのだと再反論しています。確かに聖霊によるという意味で「霊的」ですが、前述したように、このような聖句の「複合的解釈」(複数の聖句を付き合わせて解釈する方法)そのものはユダヤ教の伝統であって、決して奇異なものではありません。ただし、その解釈の方向が問題であり、その結果が「異邦人の救い」に至るという大転換がここで衝撃を与えているのです。