礼拝メッセージ要約

2024121日 「あわれみと怒り」

 

ローマ書9

17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。 

18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 

20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。 

21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。 

23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

 

パウロの悲しみは、神に選ばれているはずの同胞がキリストから離れていることです。その文脈の中で、パウロは、神がある人を排他的に選ぶことに対して、それが決して「不正」「不公平」なことではないと論証しようとしています。この話の展開は、やや分かりにくいかもしれません。選ばれたのにキリストから離れているというよりも、イスラエルの中で、ある人は選ばれていて、他の人は選ばれていないということを主張しているように見えるからです。事はそれほど単純ではないのですが、当面はこの路線で話が続きます。すなわち、あくまでも神の主権を主張するという路線です。「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」という言葉に集約されています。

 

人情としては、簡単にこれに同意することはできないでしょう。19節に、当然予想される抗議が記されています。「神の主権が絶対なら、人はそれに逆らうことはできない。だから、人に責任を問うことはできない」という主張です。理屈としてももっともでしょう。少なくとも、人間社会においては、不可抗力の案件に対して責任をとらされるのは不当なことです。しかし、神と人の間ではそうではないとパウロは言います。神は創造者で、人は被造物に過ぎないという原点を繰り返します。陶器をつくる人と陶器との関係を例にあげて、被造物が創造者に言い逆らうことなどできないと言います。ただし、陶器にはそもそも意思などないのですから、例としては厳密ではないでしょう。ただし、パウロはここで論理学の授業をしているわけではなく、同胞へ向かっての叫びを綴っているのです。同時に、彼は、同胞ユダヤ人が反論できないような例をあげているとも言えます。創造者対被造物という構図は、ユダヤ人は反論できないでしょう。

 

論点は前回に触れたように、パウロと敵対者は同じ論点、同じ土俵に立って議論しています。それにもかかわらず、キリストに対する態度は正反対になっているのですから、議論だけではどうにもならず、究極的には聖霊に働きによるしかありません。しかし、聖霊の働きと呼ばれるものが本当にそうなのかは、やはり聖書によって判断しなければならないという面がありますから、パウロも、聖書による議論を打ち切ることはしません。ただし、それは単に聖書の文言を機械的に引用するだけではなく、ある種の(すなわち聖霊による)「解釈」が含まれることになります。つまり、聖霊に導かれて聖書を理解するということが実践されるのです。これは、当然私たちも学び実践しなければなりません。2223節に一例があります。

 

まず、神による「区別」(怒りの器とあわれみの器)の存在を認めるところから始めます。(区別は差別ではないのかという論点からは一旦離れます)。ここでは、17節のパロの話も念頭にあると思われますので、そこに戻ります。神はご自身の力を示すためにパロ(異邦人の王でありユダヤ人を迫害している者)を立てました。出来事としては、モーセが神の力を示したのであり、パロはかたくなになったことで、結果的に神の計画に協力することになったということでしょう。しかし、神の力はパロにおいて(パロの中で)示されたというのが聖書の記述です。つまり、パロがかたくなになったことさえ、神の力の現れなのです。18節に、「みこころのままにかたくなにされる」とある通りです。神の絶対主権がまず確認されます。「怒りの器」という表現も同じことです。その「怒りの器を豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか」という問が投げかけられる22節がポイントとなります。

 

「怒り」から「忍耐」というプロセスを人間的にとらえると、要するに「腹は立ったけれども思い直して我慢した」という、気持ちの変化という話になるでしょう。人間なら普通のことでも、それが神となると、神でさえ気持ちが変化するのかという話になってしまいます。まして、そもそも怒り自体が神の意志で発動されたのですから、それこそ神の中で勝手に進行している「自作自演」にさえ感じられるでしょう。つまり、ここでも「絶対的主権」は単なる「恣意」と同じことになってしまいます。そうなると、すべてのことは、単純に神の意志によって起こる「不可避」な事態となってしまい、要するに運命論に収束してしまうのです。実際、そのような信仰形態も存在しています。もちろん、パウロはそのような運命論を語っているのではありません。ただし、それは人間の意志が神の計画を上回るという人間中心主義とも違います。

 

パウロの言う神の絶対主権は、機械的・盲目的なものではなく、あくまでも神の本性から発するものだというのがポイントです。怒りの器を定めたのは神の主権によることであり、人が反抗するのは無駄なことです。しかし、この「主権の発動」を上回る主権の発動があるのです。すなわち、主権の発動は、すべてが横並びにあるのではなく、そこには質の違いがあり、あるものには他のものよりも優位にあるということです。ここではそれが、忍耐と寛容を怒りの器に示すという事態です。これも神の主権の発動なのですが、「怒り」と「忍耐」を横並びに見るならば、それは「恣意的な変化」と見られます。しかし、主権の質的な違いが見えれば、それは通常の主権を上回る、絶対的な主権の発動だということがわかります。「あわれみが裁きに勝つ」ことが、絶対的な主権の現れだということです。

 

これは、必ずしも新約の時代になって突然登場したものではありません。旧約の時代にもそれを示唆する出来事(アブラハムのとりなし)や告白(詩篇などの言葉)にもみられるものです。言い換えると、律法(トーラー)を、規則集ではなく、トーラー本来の意味、すなわち道として捉える世界です。そこでは、これまでも繰り返し見て来たように、義は規則的な正しさ以上に「施し」すなわち、あわれみの意味が強調されます。法的正義を超えた人道的な義であり、それが神の義から発しているのです。ですから、そのような意味での神の義、神の主権は時代を超えたものなのですが、それが決定的に示されたのがキリストの十字架です。ですから、十字架によって、神の絶対的な主権、すなわち神の義の問題は最終的に決着したのです。

 

パウロの目的は、この「十字架の福音」を伝えることです。そして、イスラエルの問題も、この十字架の光の中で見られています。そして、「裁きに打ち勝ったあわれみ」が、民族の大問題にどう関わっていくのかが焦点となります。「怒りの器」において、あわれみが裁きに打ち勝つならば、その先に何があるのか。「あわれみの器」にはなおさら豊かな恵みがあるのではないか。神の主権は行く先はどこなのかが、ここから問われるのです。