礼拝メッセージ要約

20241124日 「神義論」

 

ローマ書9

14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。 

15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。 

16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 

17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。 

18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

 

神に選ばれたはずのイスラエルが、キリストから離れている現状について、パウロは苦しんでいます。イスラエルと呼ばれる者のすべてが真のイスラエルではないのは、そもそも物理的な子孫が皆選ばれているのではないからです。例えば、長子のエサウではなくヤコブが選ばれたというように。そのような選別は不公平ではないか、あるいは恣意的なものではないかという抗議が人間の側からあがるでしょう。(いわゆるヨブの抗議)。この抗議の行きつくところは、「神は不正を犯している」という、神の義そのものに対する抗議、疑念となります。

 

これはイスラエルに限らず、この世界全体の問題でもあります。この世界には不正や不公平が充満しています。それが人為的なものであればともかく、自然災害や先天的な問題まで、不条理と呼ぶしかない出来事もたくさんあります。神抜きの世界ならば、「そもそも世界はそんなものだ」とあきらめるしかないでしょう。しかし、神を創造主と呼ぶ者はそれで片づけることはできません。すべての事柄が究極的に神に帰するとするならば、不義も究極的には神に帰することになりかねません。この問題を扱うのが「神義論」という分野です。世界の不条理を直視しつつも神の義を語るのはいかにして可能なのかを問うものです。

 

この議論はパウロに限ったものではありません。一神教の世界では必然的におこるものです。(一神教に対して、善の神と悪の神を立てる二元論的な宗教もあります。また、多神教の世界では、そもそも神々自体が善悪両面をもった両義的な存在です。つまり、神々は人間の同類です)。ここでのパウロの言葉でも理屈の上での決着がついたとは言えないでしょう。それで今日に至るまで延々と議論が続いています。もちろんこれは、単に学者の間での議論に留まるものではなく、凡そキリスト教や類似するいわゆる一神教に反対する人が、必ずといって取り上げる議論でもあります。あまりにも悲惨な光景に接し、「神も仏もないものか」と叫ぶことは珍しいことではありません。ですから、この問題は単に論理的な話で済むことではなく、心情に深くかかわる問題でもあります。

                                                                                                                                                          

しかし、まずは心情は落ち着かせて、この「神義論」なるものを簡単に整理しておきましょう。不条理云々より一般的な言い方では、「神(創造主)が善であるならば、なぜ世界(被造物)には悪があるのか」という問になります。(その悪の最も先鋭化されたものが不条理と呼ばれます)。おそらく一番馴染みのあるのは、「アウグスティヌス型の神義論」と呼ばれるタイプでしょう。要約すると次のようなものです。「神は善で悪には関係ない。悪自体が自律して存在しているのではなく、悪は善の欠如に過ぎない(二元論の否定)。悪は人間が自由意志の乱用によって生じたので、神は悪を裁くという形のみで悪に関与する」。これは要するに、善なる神と悪なる神の二元論に対して、善なる神と悪なる人の二元論と言えるでしょう。ある意味、図式的にはすっきりして一神教らしいとも言えますが、心情的にどう感じるかは別でしょう。これは、ヨブ型のタイプとも呼べます。(ただし、アウグスチヌス本人の議論はそれほど単純ではなく錯綜しているところもあります。これはあくまでも類型化した話です)。

「神は光であり、暗い影はない」等、これをサポートする聖句はいろいろとあります。

 

しかし、すでに触れたように、聖書自体はヨブ型で完結しているのではありません。ですから、歴史的には、アウグスティヌス型ではない神義論も現れています。代表的なのは、エイレナイオス型と呼ばれるものです。(因みに、アウグスチヌスもエイレナイオスも古代教会の代表的な人物です)。こちらの特徴は、悪は人間の成長に必要だという考えにあります。すなわち、悪は必要悪でもあり、それを含めて神は全てを創造されたということです。アウグスチヌス型に比べて、悪の存在感が増していると同時に、それを超えた神の正しさが強調されます。「神は全てのことを相働かせて益となさる」というような聖句があげられます。(ただし、この句は、神を愛する者にはという限定がついています)。

 

現代には上記以外にもいくつかのタイプが提唱されていますが、それぞれの説は自身を補強するために、いくらでも聖句を引用できます。ですから、この議論に決着がつくことも無いでしょう。むしろ注目すべきなのは次の点です。「神義論」は別名「弁神論」とも呼ばれます。「神の正しさ(善)」を「弁護する」という意味です。言うまでもなく、「神が善ならなぜ悪が存在するのか」という、神に対する抗議に対抗する意味です。いわば、ここでは、神が人間の法廷に立たされていて、キリスト者が神を弁護するという構図になっているのです。これは、とんでもない倒錯か悪い冗談でしょう。そもそも人に弁護されなければならない神など、神ではありません。

 

しかし問題は深いところにあります。すなわち、ここで「弁護されるべき神」とは、宗教(キリスト教に限りません)に登場する「神」です。そして、その神の概念(ここでは善)が問題とされているのです。そして、そのような神を立てる宗教の整合性や、世に対する説得力が論点となっています。要するに、これは宗教問題なのです。ローマ書でいう律法の問題です。ですから、「神義論」とは、実は「宗教・義論(その宗教・律法の正当性についての論)の一部(中心部)であり、弁神論とは「宗教・律法弁護論の一部(中心部)」であるに過ぎないのです。もちろん、私たちは、何らかの律法によって成立している世界に住んでいる以上、律法は尊重されなくてはなりません。律法(ここでは、神の義についての考え)について深く考えるのは当然です。また、真面目な質問に対しては誠実に答えるべきです。パウロも、同胞のユダヤ人に対して、何とか福音を伝えようと、いろいろな例をあげて論証しようとしています。上記の神義論等も、学者の単なる趣味ではなく、切実な論争の中から生まれ、信徒を励ますために形成されたものではあるでしょう。

 

とは言え、何度も繰り返してきたとおり、私たちを救うのは律法ではありません。神ご自身が救うのです。「神の義を弁護しよう」などと人が考えるのは馬鹿げているとは言えます。しかし、逆に言えば、人がそのようなことを考えることができるというのは、そのような能力が与えられているからです。言うまでもなく、そのような能力を与えたのは神ご自身です。人は自らの理性と道徳心から神の義に対して疑念を持つことが可能とされています。そのような能力をお与えになった神が、人に劣る能力しかないなど、全くあり得ないことでしょう。人に劣る理性と道徳しかない神など、神ではないということです。

 

ヨブが神に対して抗議を続ける中、3人の友人はヨブの罪を指摘し続けました。ヨブが何と言おうとも、神が正しいのだから、ヨブの抗議は無効だというのです。それは理屈の上では正しいでしょう。しかし、後に神は、この3人よりヨブの方が正しいと言われました。正論より抗議をしたヨブの方が正しいという逆説がここにあります。(しかも抗議の内容自体は究極的には間違いであると神から言われています)。ここにも、神は律法を超えているという真理が表れています。ですから、真の「神義論」とは、律法を超えたお方の義を告白するということです。この「律法」は、人間の理性と道徳心の集大成でもあるというのが、ここでのポイントなのです。