礼拝メッセージ要約
2024年11月17日 「残りの者」
ローマ書9章
6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」
10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
前節でパウロは、イスラエルに与えられた特権について述べました。その「特別な存在」であるはずのイスラエルが、よりによってキリストを拒否し、神の祝福から離れているのは何故なのか? これがパウロにとっての最大の問題でした。いや、問題どころか悲痛な叫びでもありました。もちろん、キリストを拒否したユダヤ教当局側にすれば、特権的地位にある彼らが拒絶したのだから、ナザレのイエスは偽メシヤ(キリスト)だということになります。その上で、もしイスラエルの祝福が奪われるなら、それは律法を無視した結果だという結論になるでしょう。このように、両者(パウロと当局)の見解はどこまでも平行線であり、最終的には聖霊によらなければ乗り越えることができない断絶です。しかしそれでも、パウロは語ることを止めることはできません。何とかして、この状況を言葉でも説明しようとしています。(ただし、それは冷たい机上の論理ではなく、あくまでも叫びであることを忘れてはならないでしょう)。
パウロは彼ら(ユダヤ教当局や、それに追従する人たち)の立場から説明を始めます。パウロが言いたいのは、「イスラエル」という言葉の意味です。ここまでも、イスラエルやユダヤ人という言葉には複数の意味があることを見てきました。パウロは、「イスラエルから出るものが皆イスラエルではない」という点から始めます。ここで2回「イスラエル」という言葉が登場しますが、もちろん両者は異なります。前者は個人名で、ヤコブの別名です。アブラハム、イサク、ヤコブという流れで、アブラハムへの約束が受け継がれてきたのですが、その約束がその後どうなったのかというのがパウロの論点です。イスラエル(ヤコブ)の子孫が全員イスラエルを構成しているのではないことは明らかです。この点について、ユダヤ当局は完全に同意するはずです。
そもそも、そのヤコブにしても、アブラハムの「唯一の」子孫というわけではありません。アブラハム、イサク、ヤコブという「正統的な」系譜があり、それが、当局を始めユダヤ教徒(ユダヤ人)のアイデンティティそのものを形成しています。単純化して言えば、「選民」ということです。パウロは、この「アイデンティティ」そのものを取り上げ、まずはその土俵に上がったうえで、議論を進めるのです。(このようなパウロのアプローチは非常に大切です)。「選民」と言えば、通常「選民意識」という、いわば特権階級の思い上がりの類として語られます。しかし。ユダヤ教の場合、教義上では、「選民」とは特権階級というより、神に対する特別な奉仕義務を課せられた民と位置付けられています。本来、それは思い上がりどころか、へりくだるべき地位と言えます。(しかし、実際は、異邦人を穢れたものとして、避けることが通常でした)。パウロはここでは、この「選民」という事柄を、人や民族のアイデンティティの問題ではなく、「神の選び」という神の観点から論じています。
この「神の選び」は、道徳的な議論としては非常に問題が多く、多くの場合それは、受け入れがたいどころか、拒否反応さえ呼び起こすかもしれません。論点は(論理的には)明確です。「神の選び」は神の主権の問題だということです。神がだれを選ぶのかは、神の専権事項であり、人がとやかく言うことではないと。その究極の例の一つとして、13節に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」という神の言葉が引用されています。「神は愛である」という、聖書の根本テーマを覆すかのような言葉です。パウロは、この後の箇所でも、別の例をあげて、神の「一方的な選択」について書き続けます。これを、単純に神の主権という一言で済ませば簡単ですが、聖書はそう一筋縄ではいきません。「主権」にはその運用という側面があります。それが適正なものではなく、恣意的であれば、権力の乱用ということも起こりえるのです。つまり、神にも倫理的なことが問えるのではないかという議論です。これは大切なポイントで、「神は倫理を超越している」という主張は、論理的には正当であっても非常に危ういものです。それは、注意しなければ容易にカルトになってしまいます。ですから、パウロの議論も丁寧に読む必要があります。
この箇所のキーワードのひとつは「約束」です。8節では「肉の子ども」と「約束の子ども」が対比されていて、通常の理解(肉、つまり自然の子が子孫であるという理解)に反して、後者が「子孫」であると言われています。つまり、子孫の意味が変わっています。この場合の「肉」は自然の法則に従うケースです。いわば、自然の因果関係の結果です。それに対して、約束は自然の因果関係ではないパターンです。自然の因果関係ではないというと、超自然的な出来事を思い浮かべます。実際、超高齢で出産したサラのケースが挙げられていますし、言うまでもなくクリスマスの出来事もあります。また、イスラエルという集団の誕生自体、出エジプトという超自然的な出来事を出発点としています。ここで、神の約束と超自然的出来事の関係を確認する必要があります。まず、両者はイコールではないという点です。つまり、超自然だからといって、それが全て神の業とは限らないということです。(ある意味では、超自然でも自然でも全て神の業であるとも言えます)。ポイントは、まず「約束の言葉」があり、それが実現するということで、それが自然か超自然かは二次的なことでしょう。超自然の場合、もちろん信仰が必要でしょうが、自然であっても、それが成就まで長期にわたるのであれば、やはり信仰が必要でしょう。(逆に、超自然であっても、それが短期間に起こったら、一時的な驚きはあっても、それが信仰に結びつくとは限りません)。要するに、ここで大切なのは「信仰」であり、それが無ければ、神の業を悟ることはできないのです。
11節から13節では、エサウとヤコブの例があげられています。ここには超自然的要素はありません。二人が生まれる前から、神は一方的にヤコブを選んでいたのです。長子エサウが退けられたというのは、法律、慣習に反するという意味では「不自然」ですが「超自然」とは呼ばないでしょう。前述したように、この出来事に「神の恣意的決定」への疑問を感じることは避けられません。一般的に言えば、「不条理」に対する疑問です。この疑問に対しては、すでに8章終盤で「ヨブへの答え」というテーマで考えてきました。(9章以下は、8章までの内容を土台として読まなければなりません)。
ここでもポイントは、「神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるように」にある「行いにはよらず」という部分です。私たちは、「神の選び」から「人の行いではない」という部分を受け取るべきであり、「神はなぜエサウを憎んだなどと書いてあるのか」という問は、文脈から外れています。行いではなく信仰というのは、ローマ書がここまで述べてきたことです。パウロが神の選びを強調するのは、この「信仰」さえもが、人の信念というような「行い」になってしまう危険があるからです。それは、まさにイスラエルが陥っている状況であり、また私たちも常に心しなければならないことなのです。