礼拝メッセージ要約
2024年11月10日 「イスラエルの特権」
ローマ書9章
1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
パウロは同胞に対する大きな悲しみをかかえています。それは、彼らがキリストから離れているからです。この「同胞」とは当時の意味でのユダヤ人ですが、パウロは彼らが本来どのような人たちであるのかを述べます。それが4節から列挙されている内容です。3章冒頭でパウロはユダヤ人のすぐれたところは何なのかという自分自身の問いに対し、それはいろいろとあると述べながら、一つだけしか書きませんでしたが、ここでは網羅的に述べられています。これは、もちろんパウロ個人の見解ではなく、ユダヤ人一般の見解ですから彼らの視点からすれば当然の内容でしょう。(しかし異邦人の視点については別途検討する必要があるでしょう)。
まず、彼らは「イスラエル人です」とあります。実はその後(子とされること以降)の記述は全部「イスラエル人」の修飾語です。つまり、それらの修飾語の内容が、パウロにとっての「イスラエル人」の定義ということになります。(前回、ユダヤ人やイスラエルという言葉が複数の意味を持っていることを見ましたが、ここでの定義を前提にローマ書を理解することが必要です。逆に言うと、これらの定義を満たさない場合、言葉はイスラエル人でも別の話になってしまうということです)。修飾というのは、イスラエル人には以下のことが与えられているという意味です。
まず「子とされること」すなわち神の子という身分が与えられているということです。(出エジプト記4:22、 イザヤ1:2など多数)。これはユダヤ人にとっては当然のことなのでしょうが、大きい問題でもあります。パウ
ロは8章で、「神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」と書いています。つまり、それはまだ本当の意味では現われていないということです。ここでも「子ども」という言葉にも複数の意味があることがわかります。大雑把に言えば、旧約での意味と新約での意味の違いです。もちろんこの箇所は旧約の意味でしょう。旧約で、神は
イスラエルを「我が子」「長子」と呼んでいます。神を父、 イスラエルを長子とする「義人的表現」は一貫しています。強調点は、ローマ書でも話題となっている「長子」で、中心となるテーマは「相続」です。神からの相続分を受ける立場にあるのがイスラエルだという考えです。もちろん、彼らにとって「相続」と言えば、まず「約束の地」を意味するでしょう。この土地の問題が今日まで続いているのは周知の事実です。この「相続」の実質が福音で何を意味するのかについては、ローマ書前半で学んできました。
パウロはこの点について、「子とされること」という言葉を使っています。「養子」という意味です。養子という言葉に差別的な意味はなく、神に愛されていることに代わりはありません。同時に、パウロは「実子」すなわち神の御子との違いも念頭においています。イスラエルが旧約で「長子である」と書かれているとしても、真の長子であるキリストなしで神との関係を語ることはできません。いずれにしても、イスラエルが神の養子であるというのは、その養子の具体的な内容が何であれ、神から与えられた特権であることには変わりありません。
次に「栄光」とあります。定冠詞のついた栄光ですので、神の栄光(あるいは神から与えられる栄光)と理解してよいでしょう。古代イスラエルの歴史においては、さまざまな時に神の栄光が表されました。代表的なのは出エジプトでの出来事でしょう。後に、特定の出来事だけではなく、エルサレム神殿において神の栄光が示されたこともあります。イスラエルは、そのような神の栄光を目撃したり、賛美したりする民なのです。ただし、それは完全なものではありませんでした。というのは、そのような「栄光」は外部から観察されたり、賛美されたりするもので、いわば、人から切り離されているからこそ尊ばれるものだからです。偉大なものへの賛美は何もイスラエルに限らず、あらゆる文化においてなされます。そのような、人間の価値観の極限のようなもの、それが、いわゆる外部から観察される神の栄光なのです。
しかし、福音はそのような人間的なものの対極にこそ、真の神の栄光を見ます。すなわち、十字架のキリストです。人間的な感性に訴える、いわゆる美的な賛美と対極にある、ただ聖霊によって啓示されるべきものです。しかし、キリストを排したイスラエル(の一部)は、まだその栄光を知りません。
諸契約(アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約)や律法(モーセ律法)、礼拝(エルサレム神殿を中心とした諸儀式)、約束(イスラエルの未来に関する約束)、先祖たち(アブラハム、イサク、ヤコブの系列)なども列挙されています。いわば、旧約の根幹部分の部分です。いまそれぞれの内容に立ち入ることはできません。単純化すれば、イスラエルには旧約という立派なものが与えられているという理解でよいでしょう。ポイントは、神に選ばれたということ(選民)、いくつかの言葉やユダヤ人の心情に依存しているのではなく、歴史を通じて、さまざまな形で表されてきたということです。そして、もちろんこれは、同胞ユダヤ人が皆認めることでしょう。このように、イスラエルに対する神の歴史的な働きについては、パウロも見解を共有しているのに、キリストへの態度となると、全く正反対になってしまうのはなぜか、これこそが、ここでも問題となっているのです。
この「先祖たち」を取り上げたことによって、パウロはいよいよキリスト本人という本題に進みます。先祖どころかキリストご自身も人としては(肉によっては)彼らの子孫、すなわちユダヤ人なのです。この一点だけでも、後に拡がる「反ユダヤ主義」(ユダヤ人はキリスト殺しの呪われた人種)はナンセンスであることが明らかです。(ただし、反ユダヤ主義はそれだけの問題ではないことも重要です)。いずれにしても、パウロはここで、人としてのキリストを含め、神の恵みが与えられている同胞ユダヤ人への熱い思いを吐露しているのです。この熱いがあるからこそ、その彼らの現状を見て、大きな悲しみを抱いているわけです。
この思いをしめくくるのが5節後半です。ここは古来、解釈がわかれている所です。ひとつは、この新改訳のように、「とこしえにほめたたえられる神」をキリストの修飾文としてとる読み方です。この解釈は、キリストの神性を明確に語る少ない箇所の一つとして、三位一体論の中でしばしば取り上げられます。直前の「人としては」との対比として、神としてのキリストを掲げ、適切なバランスがとられているという評価があります。もう一つの読み方(口語訳など)ではキリストの箇所から切り離して、「万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな」という頌栄の文となっています。パウロの一般的な書き方としては、こちらの方が自然だとも言われます。原文には句読点のような区切りがないので、どちらの読み方も可能です。そのために、解釈がわかれ決着することはないでしょう。(ここから、キリストの神性に対する立場を論じる人もいますが、三位一体論自体は、このような解釈の分かれる一節だけから成立しているわけではないので、そのような議論は無益でしょう)。いずれにしても、パウロの同胞への思いは、神への賛美として結ばれています。同胞への悲しみと神への賛美の共存が、ここからの主要テーマとなっていきます。