礼拝メッセージ要約

2024113日 「パウロの悲しみ」

 

ローマ書9

私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。 

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。 

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 

彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

 

9章から後半に入ります。後半は、9章から11章がイスラエルについて、12章以降は実践的な事柄について論じられています。まずは、イスラエルについて読んでいきます。このテーマは、2章後半から3章前半にかけて既に取り上げられています。そこでは、真のユダヤ人とは何かについて語られています。その結論は、外見ではなく心の割礼を受けた「隠れたユダヤ人」が真のユダヤ人であるということでした。このテーマは一旦保留され、ユダヤ人と異邦人の区別を超えた「信仰による義」へと話が進み、8章で結論に至りました。そこには、もはやユダヤ人も異邦人もありません。とは言え、現実社会にはユダヤ人が存在しますから、パウロは改めて、この現実問題に取り組むことになります。

 

9章以下では「イスラエル」がキーワードとなっていますが、主題は人であって国家機構ではありませんから、実質ユダヤ人と同義と見ることができます。そこで、まずは2章の時に述べた「ユダヤ人」についての説明を再掲します。

「ユダヤ人の定義」は難しい問題です。元来はイスラエル民族のことです。その後ヨーロッパではユダヤ人=ユダヤ教徒を意味するようになりました。近代以降ではユダヤ教徒の家系でありながらキリスト教に改宗した人(同化ユダヤ人)や無神論者(両義性ユダヤ人)も登場し、定義は曖昧になります。信仰はともかくユダヤ的な価値観を持っている者程度の意味になりました。しかし、ナチスはユダヤ人をユダヤ民族と定義し、その抹殺を図ることになりました。

 今日ユダヤ人自身の定義では、「ユダヤ人とは母親がユダヤ人であるか、ユダヤ教に改宗した人」となっています。つまり母系ですが、その「母親がユダヤ人」という意味が曖昧なので、結局、母系を遡って、大昔にイスラエル人だったとするのかもしれません。その場合、ユダヤ人=イスラエル人となりますが、現代のイスラエルは実質多民族、多宗教の民主主義国家ですから、古代と現代のイスラエルを同一視することはできません。

以上のような事情があるので、ユダヤ人やイスラエルという言葉を使う時には注意が必要です。

 

さて、8章で絶対的な神の愛の真理に到達し、歓喜の詩を歌い上げたパウロは、9章に入り一転して「大きな悲しみ」について語ります。それが真実なものであることをパウロは1節で強調しています。私たちは、この「大きな悲しみ」を真剣に受け取る必要があります。パウロがここから11章の結尾にいたるまで述べる内容は、学者が書斎で冷静に考察したようなものではなく、切実な「叫び」が言語化したものだと理解しなければなりません。8章でも「被造物全体のうめき」が語られていましたが、今やそれが同胞の問題に特化し、「叫び」となっているのです。

 

この叫びはまず3節で言語化されています。(因みに原文では3節から5節まで一つの文です)。それは、彼の同胞(ユダヤ人)のための叫びです。パウロの時代で「ユダヤ人」と言えば、「割礼を受けた」ユダヤ教徒のことで、イスラエルに住んでいる人とイスラエル以外にいる人(離散ユダヤ人)から成っていました。パウロがここで使っている言葉は「同胞」「肉による同国人」です。原語は「兄弟たち」「血縁の者」となっています。パウロは「兄弟」を「同じ信仰を持つ者(いわゆるクリスチャン)」の意味で使うことが多いですが、ここでは、広くユダヤ教徒を指していると思われます。また「血縁の者」はどちらかと言えば民族的な意味がありますから、ユダヤ民族と言ってもよいでしょう。(当時、両者は厳密に区別されていませんでした)。どちらにしても、あまり「国家」的なニュアンスはありません。

 

パウロがローマ書を記した時点では、イスラエルという国家はかろうじて存在していました。しかし最大の問題は、そのようなことではなく、人とキリストの関係です。同胞が「キリストから離れている」ことのゆえにパウロには大きな悲しみがあるのです。彼らがキリストにつながるのなら、引き換えに自分がキリストから引き離されることさえ願うとさえ言っています。これは過激な言葉です。新改訳では「できることなら」と訳しているので、「そもそもできるはずがない」ことを前提として、誇張表現をしているのだという見方をする人がいます。しかし原語は単に「願う」(これまで願ってきたし、今も願っている)ですから、パウロは本当にそう思っていると受け取るべきでしょう。

 

そうなると、「キリストより同胞を優先しているのはおかしい」という意見も出てきます。自分とキリストとの関係は絶対であって、他者のことは神に委ねるべきではないかと。これも正論でしょう。しかし、パウロは理屈を述べているのではなく「叫び」をあげているのです。私たちも、このような問題については「当事者」として取唱えたときに、ある人は賛同し他の人は批判しました。(日本を神と自分の間に挟むのは間違いだという意味で)。実際、彼ら(内村と無教会の弟子たち)はある意味で「日本的キリスト教(西洋的でないという意味で)」を唱えましたが、結局、戦時化において国家に飲み込まれてしまいました。(ただし、無教会信者には飲み込まれない人もいました)。そのことへの反省(反動)から、戦後は国家に批判的あるいは左派的なキリスト教が拡がりました。しかし、現代では、その「戦後」への反動から、右派的なキリスト教の拡がっているのは周知の事実です。

 

私たちの真の国籍は天にあるのですから、キリストとのつながりが全てです。同時に、今は地上に寄留していて、その地上(日本)に遣わされたものとして、その平和のために祈る使命もあります。その意味で私たちは当事者です。その平和とは神との平和であり、すなわちキリストとのつながりに他なりません。ここで忘れてはならないのは、9章は8章までの内容を前提として読まなければならないということです。すなわち、「キリストとのつながり」とは、キリストとの相互内在のことであり、律法(宗教)を介在した神との関係ではないという「福音」の根本事実であるということです。すなわち、国家と宗教とどちらが上かという問題ではなく、キリスト教が西洋的か日本的かという問題でもありません。私たちはキリスト教によって救われるのではなく、キリストによって救われるからです。パウロも、同胞がユダヤ教からキリスト教に改宗しないことを悲しんでいたのではなく、律法(ユダヤ教)によってキリストから切り離されていることを悲しんでいるのです。

 

もちろん、そのような叫びがどれほど切実なものであっても、パウロのように、「自分がキリストから引き離されてもいい」とまで言うのは尋常ではないでしょう。しかし、私たちは、この叫びの背後にキリストの十字架を見ます。キリストの場合は、十字架上で「現実に」神の呪いとなられたのです。仮にパウロが同胞の身代わりとして「呪われた」としても、そのこと自体で同胞を救うことにはなりませんが、キリストの場合は「現実に」人々を救うことができます。キリストはただの人ではなく神の御子だからです。だれもキリストの十字架にとって代わることはできません。同時に、私たちはキリストの姿へ変えられていく途上にいるのです。