礼拝メッセージ要約

20241027日 「復活の希望」

〜墓前礼拝および大神敏昭さん納骨式

 

第一コリント15章より

12.ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

13.もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

14.そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

15.それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

16.もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

17.そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

18.そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

19.もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

20.しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

21.というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

22.すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

23.しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

 

全てはキリストの復活によって始まりました。復活によって、イエス様は公に神の御子として示されました。キリストの復活に接した弟子たちは変えられ、キリストの証人となりました。「キリストの復活とその証人たち」が無かったら、その後の歴史は全く違ったものとなっていたことでしょう。キリストの復活が具体的にどのようなものなのかという議論は無数にありますが、それがどうであれ、「主(イエス)は生きておられる」と言う告白こそが、すべてのキリスト者の存在意義そのものであることは変わりありません。

 

パウロは「復活」の実相について、この15章後半でやや詳しく取り上げていますが、今回の箇所(15章冒頭)に、すでに重要なポイントが記されています。第一に、死者(一般)の復活とキリストの復活の関係、第二に、復活と死の関係、第三に、「待望」についてです。

 

まず、第一のポイントです。パウロはここで、「死者(一般)の復活」というものがそもそも無かったら、キリストの復活も無かったと言っています。世間には「キリスト=生き返ったスーパーマン」的なイメージがありますが、そうではなく、まず「死者(一般)の復活」というものがあるからこそ、キリストはその初穂(最初の者)として復活されたというのがパウロの論点です。この「死者(一般)の復活」という前提をどう捉えるかがまず問題となるでしょう。言うまでもなく、この前提は、パウロを含むパリサイ派の世界観に含まれるもので、その多くの部分は、預言やその他の伝統からもたらされました。そのため、モーセ五書しか受け入れないサドカイ派は、復活の教義そのものを退けていました。このあたりの消息については福音書に詳しく記されています。

 

イエス様は、そのサドカイ派に対して、モーセ五書からの引用をもって、驚異的な論法で「復活」を語られたのは周知のとおりです。イエス様の語る「復活」は、一般的な復活とは全く次元の違うものですが、残念ながら今その内容に立ち入ることはできません。ただ、覚えておきたいのは、イエス様のその語りは、パリサイ派の歴史観(復活と新時代に関する黙示思想的な)には依存していないということです。ですから、私たちは、クリスチャンであるためにパリサイ派になる必要はないのです。言い換えると、私たちの信仰は、特定の歴史観や世界観に依存していないということです。人は、キリスト教的世界観(の内のひとつ)を信奉するから救われるのではなく、主の名を呼び、キリストとつながるから救われるのです。いずれにせよ、「死者(一般)の復活」が定められていて、キリストはその初穂としてよみがえられたというのが、ここでの第一のポイントです。(人とキリストの復活はつながっているのです。ですから、キリストの復活は他人事ではないのです)。

 

第二に復活と死の関係についてです。聖書に登場する「死」という言葉には様々な意味があります。文字通りの肉体の死、神から離れる霊的な死が代表的なものです。それとリンクしているのが「滅び」で、文字通りの消滅から神の裁きにあっている状態までやはり様々です。それらのどこに重点を置くかによって、これまた様々な神学や教理が生まれてきました。しかし、ここで大事なのはそのような「死」や「滅び」の分析ではありません。キリストの復活抜きでは、生きている人の信仰は無意味であり(17節)、キリスト信仰を持っていた死者も「滅んでしまった」であろうというのがパウロの主張です。現実はそうではないのだから、キリストの復活も現実であるというのが、ここでの重要な論点です。(無意味と滅びは実質的に同じことを指しています)。

 

通常は、「いのち」と「死」が対比されます(生死のこと)。しかし、ここでパウロが比較しているのは、キリストとつながっている生死と、つながっていない生死です。キリストとつながっていることが可能であるのは、キリストが復活されたからに他なりません。誤解(混乱)しやすいのは、この「キリストとつながった生死」を「いのち」と表現し、「キリストとつながっていない生死」を「死(滅び)」と表現することもある点です。「生」「死」の言葉が交錯しているので注意しましょう。いずれにしても、「キリストとつながっている」ことがすなわち、キリストの復活の証しなのです。そして、言うまでもないことですが、キリストとつながるのは、私たちの側からの働きかけによるのではなく、全面的にキリストからの働きかけによる恵みです。私たちは、ただ主の名を呼ぶのです。

 

最後に、「待望」についてです。「キリストにつながっている」のは、今すでに実現していることです。そして、キリストにつながっているものは、キリストの姿に変えられていきます。この「変化」は進行中です。心(中心)から始まり、周囲へと拡がっていきます。ただし、それは一直線に目に見える形で起こるのではありません。そのプロセスの中に、私たちの「死」も含まれているのです。「キリストにつながる」のは、キリストの生死につながることです。キリストは単に永続して生きているのではなく、十字架で死に復活されたお方です。「復活」には必然的に死が含まれています。そして、そこには死からいのちへという順序があります。この「順序」が歴史的に展開すると、それは「再臨への待望」という形になります。

 

ローマ書にあるように、キリストと共にある私たちは、今、産みの苦しみをしています。復活のキリストは、聖霊によって私たちと共にうめき、とりなしの祈りをしておられます。私たちも、言葉にならない深いうめきによって祈り、復活者キリストと同じ姿に似せられるまで、主を待望し続けるのです。そして、それは同時に、私たち一人ひとりに留まらず、共にうめいている被造物全体が「滅び」から解放されることでの希望でもあるのです。