礼拝メッセージ要約

20241020日 「ローマ書前半のまとめ」

 

ローマ書8章

35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」

と書いてあるとおりです。 

37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 

38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 

8章末尾にある、神の愛の絶対的な支配の告白をもって、ローマ書の前半は閉じられます。この結論にいたるまでの、ローマ書前半を振り返ります。1章の前半で、パウロがこの手紙を書いた目的が示されました。それは、ローマにいる信徒たち(ローマ教会と呼んでおきます)に福音を伝えるためでした。ローマ教会はユダヤ人と異邦人からなる教会でしたから、彼らが共に救われるためには共通の基盤が必要です。パウロはユダヤ人なので(そもそもキリストも人としてはユダヤ人なので)聖書(旧約)が福音の中心である「御子」を約束していることを述べます。しかし、約束はあくまでも言葉であり、本体は御子ご自身です。そして、キリストが御子であることは、彼の復活によって明らかにされました。

 

パウロは、本来、ローマに行って御霊の賜物を直に分け与えたかったのですが、それがしばらく叶わないので手紙を書いたのです。ここに、福音の本体は、文字ではなく復活のキリストご自身であり聖霊であることが明らかです。文字(言語)は、あくまでも、その本体を指し示すのが役割です。

 

1章後半からは、ユダヤ人と異邦人が共に罪の下にいて、共に「福音」によって救われる(義とされる)ことが語られます。これは、異邦人にとっては、ダイレクトな救いとなりますが、律法の下にあるユダヤ人にとっては、律法の存在が問題となります。2章から4章にかけてパウロは、神の義にあずかるには、律法を持っているだけでは十分でないばかりか、律法の行い(律法によって義を追求すること)ですら不十分であることを説きます。すなわち、律法の行いではなく信仰による義であり、それは、ユダヤ人にも異邦人にも等しいのです。そして、3章後半に、「信仰の義」は、ただ恵みによることが明言されています。

 

この福音は、ユダヤ人の誇り(異邦人に対する優越性)を否定するものですから、ユダヤ人が反発するのは分かりやすいでしょう。その彼らに、パウロはあくまでも聖書(旧約)自体が福音を示していることを、様々な角度から語ります。4章ではアブラハムまでさかのぼり、信仰の優位性を説明しています。この一連の信仰についての議論は、5章前半は一応の結論にいたります。不敬虔な者を義としてくださる神の恵みを信仰によって受けた私たちは、神との平和(シャローム)の中にあるので、大いに喜んでいるのです。ここまでが、第一部と見做せるでしょう。

 

以上で、ユダヤ人と異邦人が同じ立場に置かれていることが明らかになったので、5章後半からは、第一部の内容がさらに深掘りされます。ここからは、ユダヤ人と異邦人という区別がそもそも存在していない、人の原点から振り返ることになります。まずパウロはアダムを取り上げ、アダムとキリストとの対比という観点から福音を語ります。これは、単なる歴史ではなく、人間存在の在り方そのものの話です。私たちも日本人(そして、その他の人種)であることを忘れて、ひとり一人の「実存」を見つめることになります。ここに登場するキーワードが「ひとり」(ひとつ)です。アダムとキリストという、それぞれ個人について語られていることが、全人類に当てはまるということが一点。そして、全人類に当てはまることは、私(自分)ひとりの出来事であるということがもう一点です。ここからは、一般論ではなく自分個人とキリストとの関係として論じられるわけです。

 

これを受けて6章では、自分とキリストが「つながる」という核心について、「バプテスマ」(キリストに浸されること)という表現で説明されます。この「キリストとのつながり」とは、キリストの死といのち双方につながれていることです。(今生きて働いておられるキリストは十字架のキリストでもあるという点が重要)。そして、パウロはこの「バプテスマ」(キリストとの一体性)という事実から、深刻な問い、すなわち罪の本質についての話に進みます。6章後半で、罪人とは、単に罪を犯す人ではなく、罪の奴隷であるという現実を直視します。しかも、この奴隷とは、嫌なことを強制されているのではなく、自ら進んで身を捧げている者なのです。つまり、罪の支配とは、人が自ら支配されようとする状態を指しています。

 

この支配の内実が7章で描かれています。すなわち、罪は律法という良いものを使って人に罪を犯させるのです。ここがローマ書の重要部分であることは明白でしょう。人は律法に仕えることが神に仕えることだと信じて行動するのですが、罪人がそれを行うならば、実はますます罪が増強されるというのが核心です。ここでの律法とは、もはやユダヤ教(モーセ律法)に限定されません。道徳規範を定め社会の安定を図る、すべての宗教・思想を指しています。それらは良いもので必要なのですが、救いをもたらすことはなく、逆に悪が増大するのです。これは、冷静に歴史を見ても明らかなことでしょう。この意味での律法(個人や社会の土台である宗教・思想)は、悪を阻止しようとして強化されれば、逆に罪は悪質化し、そうかといって、律法を弱体化しても悪は増大するのです。このことに気づけば、律法による義は実現不可能であることは明らかでしょう。

 

以上が8章に至る道のりです。律法の道が無効であるならば、それとは別の道が必要です。それが信仰の道なのですが、「信仰」は、何かの思想信条を信じることではなく、実際にキリストとつながることです。この「つながり」が、キリストとの相互内在であり、その実質は、聖霊による出来事であることが明らかにされます。そもそも1章でパウロは、ローマに行って御霊の実を分かちあうことを述べていました。福音とは聖霊の現実であり。信仰とは聖霊の現れなのです。それは、神の力が私たちに「外から」作用するのではなく、聖霊と私たちの相互内在であり、それがすなわちキリストとの相互内在でもあります。この「相互内在」こそ福音の核心であり、それは、そもそも「父、御子、御霊」という三位一体の相互内在から来ているのです。

 

これが「救い」の内実です。すなわち、「神のかたち」の回復であり、「御子のすがた」に合わせられることです。神の子どもとはそういう存在なのです。これが福音の結論ですが、ここから人間だけではなく全被造物のことが語られます。「神のかたち」が見失われていく様が創世記冒頭に記されています。その罪の結果は被造物全体とリンクしています。ですから、罪の問題が解決される今、被造物全体の問題も解決されるのは当然のことでしょう。そもそも、罪の問題の解決とは、神の支配の現実化(神の国の到来)のことなのですから。この輝かしいビジョンは、旧約の預言者たちが待望していたことでもありました。それが今やキリストによって実現する道が開けたのです。このビジョンの光は同時に、苦難に満ちた現在の状況を照らします。この苦難は「産みの苦しみ」なのです。この「苦しみ」は、キリストと共にある苦しみであり、十字架の道です。しかしそれがいかなるものであっても、私たちがキリストとつながっている以上、私たちが神の愛から引き離されることは不可能です。この「神の愛の絶対的な勝利」こそ「神の国(支配)」であり、キリストの福音なのです。