礼拝メッセージ要約
2024年10月13日 「圧倒的な勝利者」
ローマ書8章
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
前節でパウロは様々な苦難をあげ、「義人」もなお苦しむ現実を語ります。このいわゆる「ヨブの訴え」に対する旧約での答えと新約での答えの決定的な違いについて前回学びました。前者は、単なる「創造主」としての答えであり、後者は「贖罪主」としての答え、すなわち十字架のキリストという答えでした。ですから私たちは、苦難の中にありながらも、私たちを愛してくださるかたによって「圧倒的な勝利者となる」とパウロは語ります。「勝利者となる」という日本語訳では、将来の約束に誤解される可能性もありますが、原語は現在形(継続する現在を表す形)です。「圧倒的な勝利者」も直訳すると「超・勝利し続ける」というようなニュアンスです。「勝利者」という固定した立場のことではなく、勝利し続けるというアクションを指します。ただ大切なのは、単なる勝利ではなく「超・勝利」という言葉が使われている点です。もちろん、圧倒的な勝利でも良いのですが、福音の文脈から見て、「超・勝利」すなわち、通常の意味での勝利を超越した勝利という意味にとるべきでしょう。
通常の勝利とは、敗北の対義語です。何某らの勝負があり、一方が勝ち、他方が負けます。しかし私たちはそのような通常の勝負をしているのではありません。「キリスト教が、キリスト教に敵対する勢力と戦って勝利する」などという話では全くないのです。エペソ書にあるとおり、私たちの戦いは「血肉(人間)」に対するものではありません。前述の様々な苦難をもたらす者たちと戦って勝つのではなく、それらすべてのことの「中にあって」超・勝利し続けるのです。この「超・勝利」がキリストの十字架から与えられていることは明らかでしょう。この世、すなわち罪に支配された世界はキリストを十字架にて殺しました。罪が勝ったように見えた一瞬です。しかしキリストはすでに、「私は世に勝った」と語られていました。贖罪の死によって、世に対して「超・勝利」されたのです。
もちろん、これを「義と罪の戦い」「いのちと死の戦い」のように「二元論的に」見ることもできるでしょう。いわば、神と悪魔が戦い、神が勝利したというように。実際、私たちが経験するさまざまな困難や葛藤を踏まえれば、そこに激しい「信仰の戦い」を感じるのは当然です。しかし、前に「訴える者」に関しての箇所で読んだように、本質は力と力の対決ではなく、罪を訴える側と弁護する側の戦いです。そしてキリストの恵みによって弁護側が全面的に勝ち、私たちは義とされるのです。全面的な勝利なのは、人の罪状を完全に認めた上で、それがキリストの死にともなう神の「大赦」を得るからです。この勝負を覆す方法は全くありません。それは、敗北の可能性が皆無な勝利なので「超・勝利」なのです。
この十字架の恵みに与るものは、いかなる「訴え」に対して勝利します。ただし、自分自身の義を立てるのではなく、ただキリストの恵みによる勝利、すなわちキリストの超・勝利にあずかるのです。それが、私たちが超・勝利し続けるという意味です。この「超・勝利」から得た圧倒的な確信をパウロは語ります。8章の終結部である38節、39節には、あらゆる「被造物」が列挙され、それがどんなものであっても、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないと宣言するのです。ちなみに、この「引き離す」は未来形なので、将来へのビジョンとなります。(そのため、パウロはこのことを「確信している」という形で書いています)。この「被造物」の話は、8章中程で語られた「被造物全体のうめき」に呼応しています。そこでは、被造物は神の子どもたちの現れを切望していると言われました。それなら、現在存在している被造物は全て神の子どもたちの「味方」なのかと言えば、実はそうではないという一見矛盾した現実があります。
すべてが相働いて究極的には益となるのですが、暫定的には、被造物のある部分は、現実的には様々な苦難をもたらしています。しかし、それにもかかわらず、私たちが神の愛から引き離されることはありません。ここで「被造物」として挙げられているのは、当時のユダヤ教世界における「あらゆる存在」です。当然、今日の世界観とは表現が異なりますので少し説明が必要でしょう。まず「死も、いのちも」とあります。死やいのちが、私たちに対して何をするのかというよりも、「死にあっても」「いのちにあっても」、私たちがいかなる状態であっても、私たちは神の愛から引き離されることはないということでしょう。パウロは「生きることはキリスト、死もまた益です」と語っています。
次に「御使い」「権威あるもの」とあるのは、いわゆる諸天使のことです。当時のユダヤ教では、非常に複雑な天使の世界が信じられていました。すべてのものには、それぞれ天使がついているとも言われました。(あらゆるものに神が宿っているという考えと実質的に似ています)。そして、それらの膨大な天使はさまざまな階級に分類されていました(エペソ1:21等を参照)。しかも、それら諸天使の一部は人間を妬み敵対していると見なされていました。もちろん、その長が悪魔です。私たちは、当時の「天使観」を機械的に踏襲する必要はないかもしれませんが、この世界に既知の物理法則以外の様々な「働き」ことは認めざるを得ません。それどころか、物理法則で説明できる事象であっても、その「意味」は別の次元の話です。(自然現象であっても、あるいは経済的、政治的に合理的な出来事であっても、当事者にとって「悪魔的な意味」を持つこともあるのです)。しかし、それが何であれ私たちを神の愛から引き離すことはできません。
「今あるもの」「後にくるもの」とは、今の時代と後の時代という黙示思想の時代区分のことです。いかなる時代にあっても、私たちは神の愛から離れません。黙示的枠組みに限定せず、「時」は、神の私たちに対する愛に影響することができないと解することができるでしょう。次の「力あるもの」は、原語は単に「力」です。擬人的に「力ある天使」と見ることもできますが、単純に「あらゆる力」ととることもできます。現代的には「エネルギー」と言えます。
さらにパウロは「高さ」「深さ」についても語ります。これは当時の占星術の用語です。今日でも、「星の下に生まれる」という表現があり、ある種の運命が星によって定まっていると考える人たちがいますが、古代はそれがはるかに強い影響力をもっていました。「高さ」とは、星が頂点に達し、その力が最大化している時のことで、「深さ」とは、星が最下層にいて、上昇を待っている時のことです。現代でも、月の引力の影響など、科学的な要素はありますが、古代では科学以上に影響を及ぼしていました。現代でも権威者が占いに頼りがちなのは良く知られたことです)。私たちに「迷信」は不要ですが、さまざまな物の「配置」「布置」が持つ、物理的、心理的効果について、科学的に気づき研究されています。それは、創造を絶する複雑な「相互関係」によって成り立っている世界ですか、それがどんなものであっても、神と私たちの相互関係、すなわち、キリスト・イエスにある神の愛を壊すことなどできないのです。