礼拝メッセージ要約
2024年10月6日 「ヨブへの答え」
ローマ書8章
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
いよいよ8章の終結部に入りました。前節で、「だれが私たちを訴え、罪に定めるのか」とパウロは問いました。そこで、弁護者としてのキリストと、御子キリストをさえ惜しまずに引き渡された方(御父)が、その問いへの答えであると示されました。(答えとは、訴える者はいても、その訴えは失敗するということ)。この「御子と御父(そして、それ以前に述べられた聖霊)」という答えから、最後の問いが発せられます。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれか」という問いです。そして、答えはすでに39節で与えられています。すなわち「否」です。これが最終結論で、パウロはこれを感動的に歌い上げています。
結論はそうなのですが、それを第三者的に(観客として)見て感動しても十分ではありません。私たちはあくまでも当事者であり、結論に至る「道」の中を歩んでいるのですから。「なにも引き離せない」という総論だけではなく、日々経験する「各論」が重要になる所以です。この「各論」に相当する具体例を、パウロは35節であげています。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣といったものです。続く36節には、この現状についての聖書的解釈が記されています。これは詩篇44篇の一部なので、簡単にこの詩篇を振り返ります。
44篇は「苦難の叫び」の歌で、4つの部分からなっています。第1部は出エジプトを振り返り、約束の地に至る勝利は、イスラエル自らの武力によるのではなく、ただ神ご自身の業によるという、いわば「恵み」の告白です。続く第2部は、「それなのに、あなた(神)は私たちを拒み、卑しめました」という言葉に始まる、悲惨な状況に置かれているイスラエルの苦しみを訴える部分です。他の詩篇では、「恵み」から「悲惨」への転換は、イスラエルの罪(裏切り)の結果であるとして、悔い改めにいたることもあるのですが、この詩篇は異なります。それが17節からの第3部で、そのような苦難の中でも、「私たちはあなたを忘れませんでした」との告白につながります。いわば、私たち(イスラエルの一部)の真実(信仰)は一貫しているにもかかわらず、状況は悲惨になっているという認識です。これは、ある意味では、世界の不条理を訴えるもので、ヨブ記につながるものです。
この第3部の中にあるのが、パウロが引用した部分で、詩篇では22節にあたります。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている」とありますが、注目はその冒頭にある「あなたのために」という部分です。詩篇(へブル語)の「ために」と訳されているのは、「上に」という意味の言葉なのですが、いろいろな意味で使われているので、解釈が難しいです。「上に」が「敵対して」を意味することもあるのですが、ここではその意味は難しいでしょう。ですから、「ために」となっています(英語でも同じ)が、この「ために」は、新約のギリシャ語では明白なように「原因」を指す「ために」です。「あなた(神)が原因で苦しんでいる」ということです。随分と過激な主張ですが、「恵みも苦難もすべては神からのもの」というのは、神の絶対的な主権の告白であって、理屈としては通っているでしょう。
ポイントは、ヨブ記同様、この神からの苦難が、神を信じ従っている者に下っているという「不条理」です。「因果応報」ではないという叫びであり、この詩篇の第4部も、結局、神の恵みに訴え、救い出してくださいという叫びによって結ばれています。この全体の流れから、「あなたのために」を「あなたのために(目的)生きているにもかかわらず」というニュアンスを感じることもできるでしょう。では、パウロはこの詩篇を引用し、何を語っているのでしょうか。まず入り口としては、詩篇同様、キリストの弟子が経験する様々な苦難が念頭にあるでしょう。福音書でも、弟子たちが多くの苦難を通ることが言われています。ただし、以前も学んだように、この苦難は苦難全般というより、弟子であるがための苦難のことで、人間自らが犯す罪の結果ではありません。つまり、狭く言えば「弟子特有の苦しみ」であり、広く言えば「不条理な苦しみ」を指すでしょう。
詩篇やヨブ記では、神の恵みがあるはずなのに経験している苦難に際して、悲痛な叫びが上げられています。ただし、ヨブ記ではその叫びに対して、神はある意味「問答無用」の姿勢で答えられました。「ちっぽけな被造物が全能の創造者に対して何を言うのか」という答えです。この「答え」は、もちろん正論であり、ヨブはこの時悔い改め祝福されました。しかし、もしその時の神の答えが最終のものであったならば、聖書はそこで終了し、福音も新約もなかったでしょう。詩篇にある、さまざまな叫びも、それ自体では完結していないのです。パウロが旧約を引用する時は、その原文の意味は保持しつつも、それはあくまでも未完のものであるという前提があります。旧約は「途上」のものだからこそ新約があるのです。(ただし、それは旧約聖書という本が旧バージョンで新約聖書という新バージョンにアップデートしたという意味ではありません。聖書全体が「キリストというお方」において成就したという意味です)。
詩篇でも神の恵みが土台にありました。にもかかわらず、義人が今苦しんでいることを訴えています。パウロの主題も神の恵みであり、その絶対性こそが福音の土台です。では、何が異なるのでしょうか? それは、「恵み」への応答です。旧約では、恵みに正しく応答するのは、律法を行う人であり、それが義人の定義です。その意味での「義人」の苦しみが不条理であるという訴えです。それに対して、パウロでは(すなわち福音では)、そもそも神の恵みを受けたこと自体が「義人」です。恵みに対して「人が寄与する余地」が無い、つまり絶対的な恵みなのです。それは出エジプトという事例によってイスラエルに現れた限定的なものではなく、キリストの十字架と復活によって実現しました。そのために、「恵みがあるなら、何故義人が、云々」という問自体が成立しません。なぜなら、恵みの下にあることそのものが義人の定義であり本質なのですから。そして、その恵みは、すでに確立していて、私たち人間の状態に依存していないというのが福音の根本です。
それでも私たちは、苦しみにあるときに詩篇の著者やヨブと同様、「何故」と叫ぶことがあるでしょう。苦しみは、その意味合いが何であれ、苦しいものは苦しいのですから。しかし問題は、身体的、精神的、社会的苦しみ以上に、自分の存在そのものが問われる苦しみです。ヨブの叫びは、「神に従っても(そのつもりでも)、結局神から罰せられるならば、いったい自分は神にとって何なのか、さらに言えば、そのような神は何なのかという、虚無へと続く深い懐疑からくるものです。一言で言えば、「神などいるのか」という叫びです。それに対するヨブへの答えは、その当時示された「創造主の権威」ではなく、「贖罪主の権威」、すなわち、キリストの恵みの絶対性に他なりません。もちろん、詩篇の作者も、神の恵みを、出エジプトの出来事によって把握しているのですから、神が贖罪主でもあることを知っています。しかし、彼が知っていたのは、天地創造の神、アブラハムを連れ出し、イスラエルを導いた「万軍の主」、すなわち、志向の天から見下ろし導かれるお方でした。しかし今や、キリストと私たちは相互内在する不可分の存在であり、その恵みから離れることはあり得ないのです。