礼拝メッセージ要約
2024年9月29日 「義と愛」
ローマ書8章
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
前回、私たちを訴えるという形で敵対するものについて読みました。今回は、この点をさらに整理した上で32節に戻ります。聖書の他の箇所でもそうですが、ここでもパウロは、罪の問題について裁判のイメージを使って説明しています。神が裁判官、サタンが検察官、そしてキリストが弁護人という構図です。そもそも、この構図自体に馴染みがないと話が分かりにくいのですが、それでは、福音を伝えるためには、この構図をまず説明し、納得してもらう必要があるのかという問題があります。いや、それ以前に自分自身が納得しているかが問われるでしょう。この構図を一旦受け入れたならば、サタンがいくら告訴しようが、キリストが弁護してくださる以上、判決は無罪だというのは当然のこととして理解できます。あとは、キリストの弁護がなぜサタンの告訴に勝てるのかという点だけが問題となり、通常、福音の説明はここに集中します。すなわち、十字架と復活が「私たちの罪の赦し」のためであり、それが完全に有効だから、弁護側が勝つという構図です。
これは、もちろん構図としては正しいのですが、それを単に話しても福音として十分なのかは疑問でしょう。構図は、福音のある側面を説明するためのもので、イエス様の「たとえ」同様、目に見えない真理を指し示すためのものです。ローマ書のこの箇所は、神の救いが完全であることを伝えることが目的で、そこに「神の予知、予定」と、それを実現するために現実に働いている神の側からの「とりなし」が語られています。「裁判」も構図も、それを強調するための「たとえ」です。この「裁判」の図式を単独で取り上げると、大切なメッセージを見失う危険があります。それは「神の愛」という中心的なメッセージです。32節に、そのメッセージが語られています。私たちにとって必要なのは、「裁判」によって表現されている「義」と、中心的なテーマである「愛」を、ひとつの事柄として理解し、受け入れることです。
「義と愛」の組み合わせについては、通常次のような説明がされます。「神は義なので、私たちの罪を裁かなければならない。しかし、神は愛なので裁きたくない。この状態を解消するために、神はキリストを私たちの身代わりとして裁かれた。ここに、神の義と愛が両立した」。このような説明です。これはもちろん正しいでしょう。ただ、神がご自身の矛盾を解消するために十字架を設定されたということから、やや神の内部の出来事という印象が強いのが難点です。日本の北森嘉蔵という神学者は、この「神の葛藤」を積極的にとらえて、「神の痛みの神学」を提唱しました。「裁判モデル」から受ける、やや冷たい印象を与える構図よりも、「神の心情」とも言うべき所に焦点を当てたのは有意義なことでした。「裁判モデル」では、裁判官、検察官、弁護人に役割分担されている要素が一体化され、神の心の内部の出来事として描かれているのは大切なポイントです。
ただ、「裁判モデル」は天上の出来事で、私たちが今見ることはできず、神の心情モデルも、人間の心情のレベルに落とし込んで推察するしかできないのは、有限な人間としてはやむを得ないことではあります。また、この両モデルとも、義と愛が対立するものという前提で、それをいかに調和するかという観点でできていますが、この前提そのものも問題となります。ローマ書でも以前学びましたが、「義」と訳されている言葉(ツェダカー)は、ユダヤの伝統で「義」と「施し(チャリティー)」両方の意味があります。惜しみなく施す人が「義人」なのです。もちろん、旧約聖書に登場する神は、義をもたらすために悪を罰します。世界を創造された神は、世界の秩序を維持されます。いわゆる「この世」で不条理な扱いを受けた者が、そのままで放置されることはないという信仰も当然もたらされます。「未来志向」の世界観・歴史観も関係してきます。しかし、「義」は、「違反は必ず罰し秩序を維持する」という、いわばマイナスを解消する作業というよりも、ある種の「歩み方」のことです。以前に見たとおり、それは「道」と呼ぶべきものです。
「人道」は法律を超えています。人の義を、人の法律(律法)ではなく、それを超えた「道」として捉えなければ、人の義(律法の義)は神の義(神の道)に至ることはできません。私たちが神の義を第一に求めるというのは、神の道、すなわち律法を超えた義を求めることです。そして、それが真の意味での人の道でもあるのです。「義」が律法を超え、慈善という意味にも使われるのはこのためです。そして、この「義」には、分け与えるという要素があるのは当然でしょう。それは「愛(アガぺ)」の本質でもあるのですから、愛と義を対立したものと見るのは、聖書の文脈からは外れてしまいます。対立は、義と愛の間ではなく、律法と愛(すなわち恵み)との間にあるのです。ただ、律法を義と同一視することから、義と愛の対立という誤解が生まれてくるのでしょう。これは誤解ですが、非常に深い誤解です。ですから、私たちはここまで、ローマ書を通して律法の問題を学んできたのです。
この文脈の中でパウロは語ります。32節に「御子をさえ惜しまずに死に渡された方(神)」とあります。(死に渡された)の原語は単に「引き渡された」ですが、当然、十字架が「引き渡し」の頂点でしょう。「惜しまずに与えた」ことが、まさに義であり、しかも与えたの「御子」なのですから、それがまさに神の義に他なりません。この義が愛と同じ意味であることは明らかでしょう。ヨハネ福音書の「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とある通りです。もちろん、この「与える愛(アガぺ)」の世界は、「愛があれば全ては上手くいく」というようなバラ色の世界ではありません。新改訳で、「死に渡された」と訳されているように、神の譲渡(アガぺ)の帰結は十字架でした。人はアガぺを否定したのです。しかし、それがアガぺの完成でもあるというのが福音です。この「人による否定」と「神による完成」が十字架において「ひとつ」であるというのが福音です。この「逆説」抜きにローマ書を読むと誤りに陥ります。
「御子をさえ与えた」のであれば、御子以下であるはずの「万物」を与えてくださるのは当然でしょう。ローマ書8章は、ここから最後までこのことが強調され、まさに圧倒的なアガぺの賛美となっています。しかし、あまりにも当然のことですが、その中心には福音の逆説があります。「すべてのものを与えてくださる」のは事実ですが、それはあくまでも「御子と一緒に」です。ところが、人は御子抜きに万物を手に入れたいのです。福音書のたとえでしばしば登場する「悪いしもべ」です。御子を十字架にかけたのは、御子を拒絶し、人が神抜きに万物の相続人となろうとしたからです。いわゆる「無神論」にしても「ご利益宗教」にしても分かりやすい例でしょう。分かりにくいのが、ローマ書の主題でもある「律法主義」で、一見、神が中心に登場するために、「神抜き」に見えません。しかし、人が神の名のもとに律法を所有し万物を支配しようとする、もっとも悪質な形で現れる罪なのです。
万物を「恵んでくださる」とあるように、これは「恵み」の出来事です。私たちが神から「奪い取る」ことは許されません。十字架のキリストが、復活者として私たちのために祈っておられるという恵みに「付随して」、神が私たちにすべてのものを恵んでくださるのです。