礼拝メッセージ要約
2024年9月22日 「敵と味方」
ローマ書8章
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ書8章も、いよいよ終盤に入ってきました。ここまで様々な観点から福音が語られてきましたが、ここでパウロはあらためて「これらのことからどう言えるでしょう」と語ります。これは意訳で、直訳すると、「私たちは、これらに向かって何を(これから)言うのか(未来形)?」という文です。「いままでの話(これらのこと)の結論として、何が言えるのか」というよりも、未来志向の内容です。すなわち、神のこどもたちの現れに向かって、産みの苦しみをしている歴史を貫く神の計画をパウロは語ってきたのですが、まさに「それらのこと(これらのとこ)」に向かって、私たちはさらに何を語るのかということです。
未来に向けての言葉ですが、その内容は時代を超えて普遍的なものです。というより、普遍的だからこそ未来に向けて語ることができるのです。その「普遍的な事実」の土台が問の形で語られます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とあります。直訳すると、「もし神が私たちの味方(味方している)なら、だれが(何が)私たちの敵なのか」という文です。「味方」というのは、益をもたらす存在というニュアンスで、反対に「敵」とは、引きずり下ろす存在というような感じです。神が私たちに「益をもたらしてくださる味方である」のは、前に述べられた「万事を相働かせて益としてくださる」ということからも明らかでしょう。これが未来志向の告白であるのは言うまでもありません。
問題は後半の「だれが敵対できるでしょう」という問です。パウロはこの問いに直接答えてはいません。単純に読めば、「だれもできない」と答えたくなりますが、少し注意が必要です。この原文は前にも述べたように、「だれが(何が)敵なのか」というものです。そうではなく、新改訳の意訳のように、「だれが敵対できるのか」というように、敵の能力の話になるのであれば、答えは単純に「できない」となるでしょう。神と敵(それが何であれ)の能力の比較ならば、だれも神に勝てないのは当たり前だからです。もちろん、ここでの話は、まずは、神と敵が戦ってどちらが勝つかではなく、神を味方につけている私たちに対して、だれが勝つことができるかというものです。そうではあっても、ここでの勝敗は結局、神と敵との実力勝負になるのですから、結果的には神と敵の力比べになってしまうでしょう。ですから、能力の話である限り、神に勝てる敵はいないということになり、それならば、実質的には、私たちには敵がいない(無敵)であるという結論になるでしょう。
しかし、実質的に「無敵である」ことは、敵そのものが存在していないことを意味しません。「敵」に相当するものがあるのか無いのかというのはもっと深い問題なのです。そして、この問いにもパウロはここでは直接答えていません。しかし、聖書の多くの記述から、「敵」に相当するものが存在することは明らかであり、それは「サタン」「悪魔」などという言葉で象徴的に語られています。ローマ書のこの箇所は、この問題そのものを議論していません。そのような存在は当然の前提とされており、35節以下で、それらに対する圧倒的な勝利の歌が歌われています。未来のビジョンを語る場なのですから当然のことでしょう。ただし、この問題の一点だけ触れているので、そこを理解する必要があります。それが33節の冒頭の部分です。(その前の32節も重要ですが、次回読むことにします)。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」という所に、「敵」の性格が表れています。
ここでの「敵」とは、暴力的に襲ってくるものというより、私たちを「訴える」存在です。もちろん、訴えるとは、私たちの罪を訴える、いわゆる告訴する者であり、さらには検察官のような存在です。ですから、味方と敵という表現から普通に受ける、力と力の戦いというイメージとは異なります。聖書には、サタンと呼ばれる、私たちを訴える存在が登場します。サタンは古来、さまざまなイメージで表現されてきました。しかし、それがどのようなものであったとしても、日常生活にそのような「異形の生き物」が登場するわけではないでしょう。現実には、私たちを訴えるのは他人か自分自身のどちらかしかありません。もちろん、パウロはこの箇所で、将来起こる究極的な「告訴」と「告訴棄却」のことを語っています。しかし、それは、現在進行中の出来事の延長上にあるのですから、まず現状を把握する必要があります。
他人(個人も集団も含む)による訴えは目に見えますからわかりやすいでしょう。対して、「自分自身」のケースは目に見えません。自分自身と言っても、厳密に言えば、自分の良心の声であり、その良心の背後にある何かでしょう。人間だけで完結する世界観(世俗社会)では、良心が検察官のような役割をはたし、理性が裁判官として判断するという形になるでしょう。(異邦人における良心の働きについてはローマ書でも触れられています)。このような世俗社会では、一方では良心を強化するための道徳教育や、それを推進するための制度強化、すなわち律法主義がはびこります。他方では、そのような社会に反発し、道徳からの解放を求め、良心による規制を緩め、さらには麻痺させようとする(良心の呵責自体を無用な病的症状として排除する)反律法主義が起こります。このように、世俗社会では律法対反律法の際限ない戦いが続きます。
私たちの場合はどうでしょうか。世俗主義ではないので、良心の声(良心の呵責)の背後に神の意志を見ます。微妙なのは、この声は神の声である(聖霊による罪の指摘である)と同時に、その声の内容は、「敵」の訴えの内容と同じという点です。サタンは、ありもしない罪をでっちあげて神に訴えるのではありません。(神をだますことなど不可能でしょう)。サタンを、フェイク情報を流して誹謗中傷する輩と同一視するのは的外れです。検察官としてのサタンが書く訴状の内容自体は正しいのです。聖霊による罪の指摘、良心の責め、サタンの訴えは、その内容に関しては基本的に一致しているからこそ、神の裁きが問題となるのです。(サタンの訴状の内容が正しいにもかかわらず、サタン・悪魔は始めから嘘つきである(ヨハネ福音書)であるのは大切なポイントですが、今そこに立ち入ることはできません)。
良心だけで完結させようとする世俗主義の立場については前述しました。私たちによって、それは十分ではありません。まず、良心自体が不安定で曖昧な存在です。良心は研ぎ澄まされたり、麻痺したりします。また本人は良心に従っていると主張しても、それが本当であるかを判別することができません。だからこそ律法が要求されるのです。しかし、その律法を通して、罪は減るどころか、ますます悪質になるというのが根本問題でした。この事態そのものが、まさに悪魔的なのです。ローマ書では、その事態をサタンの行動という形ではなく、罪そのものの本質という形で説明しています。私たちにとって重要なのは「悪魔的事態」そのものであって、サタンの姿をどう描くかではありません。良心を保護し強化するべき律法は「神の意志」の現れです。そこで一見罪は裁かれるようですが、逆に罪は悪質化します。それを指摘し、訴えるのがサタンで、この悪質化のスパイラルは終わりません。その行きつく所は、もはや個別の罪ではなく、罪人の存在そのものです。これが「訴えられている者」の在り方です。そして、このような罪人を、神は一方的に義と認めてくださいます。それが福音であり、実に驚くばかりの恵みです。ですから今や「主の名を呼ぶ者は皆救われる」のです。