礼拝メッセージ要約
2024年9月15日 「長子キリスト」
ローマ書8章
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
29節後半に、神が私たちを「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」目的が記されています。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。この「長子キリスト」という本題に入る前に、まず30節を読みます。ここに、パウロがこれまで論じてきた事柄の要点がまとめられています。「予定」、「召命」、「義認」そして「栄化」(栄光が与えられること)です。このうち、「栄化」以外については、これまで詳しく学んできました。「栄化」については「長子キリスト」のテーマと重なることとなります。
この「予定」から「栄化」に至るプロセスは、例によって「アオリスト」で書かれています。つまり、「過去」「現在」「未来」という時系列の話ではなく、確定した事実を表しています。子どもに算数の1+1=2を教える際、初めにリンゴ一つを見せ、次にもう一つのリンゴを並べ、二つになったという風に説明することがありますが、本来1+1=2にそのような順序(時の流れ)はなく、全体で(同時に)確定した事柄です。パウロのこのような「アオリスト」文も、同様に時間とは関係なく確定した事柄なのですが、私たちはどうしても「リンゴひとつ」風に、順番にしか理解できないという面があります。それでも、少なくとも、「予定」も「栄化」も神の意志(恵み)なのだから、初めから一体のことがらであることは理解できるはずです。
時系列的な理解は分かりやすいですが問題があります。「予定」は永遠の過去なので理解できません。「召命」と「義認」は、自分の生涯で起こることである限り理解できます。「栄化」は未来なので理解できません。このように、本来、一体である事柄が、理解できる所と理解できない所に分断されてしまうのです。これは、第三者ではなく当事者として聖書を読む者にとっては大問題でしょう。もちろん、私たちは歴史の中に(時系列的な世界の中に)住んでいますし、復活という未来を待ち望んでいます。この現実をしっかりと認めた上で、なお、時間を超えた「神の確定した事実」を悟ることが必要なのです。
以上を踏まえた上で、本題に入ります。まず「キリストが長子となる」ことと「栄化」は同じことの両面であることを確認しましょう。私たちが、長子キリストの弟や妹になることが、すなわち、私たちに栄光が与えられることです。この「栄光」については、ローマ書3章に、「私たちは罪を犯したため神からの栄誉を受けることができない」(神の栄光に達しない)と書かれています。8章のこの箇所で、罪から解放された者が、失われていた栄光(いや、それ以上)を受けると表明されているのです。キリストの弟・妹としての栄誉ですから、そもそも、キリストの弟・妹とはどのような存在なのかが根本問題となります。その解釈は、そのまま神と人との関係をどう捉えるかにつながるので、慎重に扱う必要があります。一番無難な解釈は、すべてを人間のレベルで考えることです。すなわち、神の子どもとは、子どものように「親である神」に愛されている人間のことで、人としてのイエス様が御父に愛されているように、イエス様に続く私たちも神に愛されているのだという解釈です。この場合、「御子のかたち」という言葉も、神に愛される人としての在り方という意味になるでしょう。ユダヤ教の延長線上にある解釈とも言えます。
この解釈の対極にあるのが、「御子」をあくまでも三位一体の「子」という意味にとる解釈です。つまり、キリストの「人性」よりも「神性」に重きを置くのです。その場合、「御子のかたち」は神的な様相を帯びてきます。その「かたち」と同じ姿にされるというのですから尋常ではありません。東方教会(正教)では、「栄化」を「神化」と呼びますが、この路線にあると言えるでしょう。ユダヤ教やイスラム教といった「いわゆる一神教」からは神を冒涜する教えだと言われるのもやむを得ないでしょう。もちろん、正教といえども、キリスト教である限り、文字通りの意味で、人が神になるとは言いませんが、危うい考えではあるでしょう。ただし、創世記には「神はご自身に似せて人を創造された」とあるのですから、単純に排除すべき考えとは言えません。
結局、私たちが「キリストとつながる」という時、何を意味しているのかによって、解釈が変わってくるということです。人としてのイエス様なのか、神としてのキリストなのかということです。しかし、私たちは、そのどちらか一方だけを選択することができません。神であり人であるキリストというのが根本だからです。ただし、この2千年間続いている議論には注意点があります。「神・人であるキリスト」という時に、人はまず勝手に「神」を想定・定義し、その「神」と「人」がなぜ同時にキリストにあって両立するのかと問う傾向があります。神と人とは正反対なのだから両立するはずがない、しかし両立しているのが神秘なのだと言います。もちろん、神秘には違いありませんが、問題は、「神」を勝手に定義してから話を始めている所です。もちろん、諸宗教には神々が簡単に人間になる話がたくさんありますから、それらと差別化をするために(ユダヤ教の伝統を維持するために)神を人と正反対の存在と定義するのは必要ではあるでしょう。しかし、それは哲学・神学の問題として議論すれば良いのであり、当事者である私たちにはもっと根本的な事柄があるのです。
すなわち、「実際に」キリストとつながること、そのことです。そのキリストをどう定義、説明するかは学問の仕事です。もちろん、私たちも学問をすることはできますし、理解を深めようとするのは当然です。ただし、私たちが「神を理解」しようとする時には、基本的に、「自分は神をこう理解するが、神はそれを超えている」という自分の考えを「否定」する方から進めるしかありません。神が見えないというのは、そういうことです。そして、ここが大切なのですが、私たちは、神を理解することとは別に、神を「告白すること」ができるのです。告白においては、神はすばらしい、あわれみ深い等、「肯定」の方から進みます。私たちは、相手を完全に理解するから賛美するのではなく、相手が理解を超えて素晴らしいからこそ、その前にひれ伏し賛美するのです。
この「否定」と「肯定」の両方があるのは当然でしょう。ある程度、人間関係でも同じことが起こります。相手を理解しようとするなら、自分の「勝手な理解」を否定するところから始める他ありません。同時に、自分の理解を超えて、相手を肯定的に捉えることができなければ、人間関係を構築することはできません。これは、人間関係だけでなく、科学的な探究でも言えます。まず仮説を立てますが、その仮説に反する事例がないか徹底的に検証しなければなりません。同時に、研究の対象を尊重し、真摯に向き合うということ無しに研究はできないのです。まとめると、自分の独断を否定し、相手の存在を肯定するということです。言い換えると、「悔い改め」と「信仰」です。悔い改めとは「神と自分に関する考え方の転換」という意味であり、「信仰」とは「神の真実を信頼する」という意味だからです。これは、特定のイベントではなく「道」です。キリストの弟・妹とは、キリストとの相互内在に立ち、この道を歩む者のことです。集約すると「主の名を呼ぶ者」のことなのです。