礼拝メッセージ要約

202498日 「御子のかたち」

 

ローマ書8章

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 

27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 

28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 

29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 

30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 

「神の子どもたちの現れ」という希望は、私たち人間から出たものではなく、神があらかじめ定めされたご計画によることです。この計画の実質が、「御子のかたちと同じ姿に定められたこと」と言われています。「ご計画」は、黙示思想の中では、世界の始め(始まる前)から存在していたと言われることもありますが、「御子のかたち」も、創世記の記述との関連で理解していくことになります。黙示思想抜きで理解するならば(歴史の順序そのものよりも、それが象徴している内容に注目するならば)、人間本来の在り方についてのメッセージということになります。

 

まず「御子のかたち」についてです。これは何を意味しているのでしょうか。人間(ユダヤ人)イエスの「かたち」でしょうか。もちろん、見かけ(人種、性別、年齢、容姿)のことではありません。それでは、人としてのイエスの内面でしょうか。それはあり得るでしょう。ここでの「かたち」とは、単純には「コピー」(元のものにそっくりなもの)という意味です。しかし、人がイエス様の「クローン」になるわけではありませんから、ニュアンスは違うでしょう。また「もとのものを示すもの」という意味もあります。コンピューターで登場する「アイコン」の原語は、ここの「かたち」で、見えないイエス様の内面を示しているとも言えるでしょう。

 

これらは可能な解釈ではありますが、やはり創世記冒頭の記事に帰る必要があります。神は人を「ご自身のかたちに似せて」創造されたという重要な箇所です。ここも、「神のかたち」について古来様々な議論がなされてきました。その内容が何であれ、パウロのこの箇所は、「神のかたち」が「御子のかたち」と繋がっているのは明らかでしょう。「神のかたち」に似せて造られた人間は罪によって堕落しましたが、今や御子キリストが来られ、キリストの相互内在に導き入れられた人々は、御子のかたちと同じ姿に変えられることにより救われるのです。(御子が神のかたちであることに関しては、聖書の他の箇所に書かれています)。神の救いとは、要するに以上のことで、それが完成するのが「復活」の時なのです。

 

この大きな枠組みを前提として、あらためて「かたち」について考えなければなりません。なにしろ、それこそが救いの中身なのですから。古来、すべての被造物の中で人間だけが「神のかたちに似せて」造られたという所から、人間が持っている特質が「神のかたち」の反映であると言われてきました。物をつくる能力、言語、理性などです。これらの能力が神から与えられたのは確かですが、他の動物との比較では「程度問題」と見做される可能性があります。また、神と人間とを能力で比較するのは、あまりにも差がありすぎていて、無意味で馬鹿げているとも言えるでしょう。

 

創世記の記事には、もうひとつ注目する点があります。神はご自身に似せて、人(単数)を男と女として創造されたという部分です。つまり、男と女という部分に、神のかたちと関連する要素があるということです。オスとメスの話なら、他の動物にも当てはまるのですから、ここでの男と女はそれ以上の内容があるはずです。この男と女については、創世記の次の章でアダムとエバの話として展開されます。ですから、「かたち」は固定的なものと言うより、「出来事」「事態」として表現されるべきものだと言えるでしょう。この「事態」を要約するとこうなります。まず「ひとり」が与えられています。その「ひとり」から「もうひとり」が与えられます。そして、この「ふたり」は結ばれて「ひとつ」となります。ただし、最初のひとりに戻ったのではなく、新しい「ひとり」が生まれました。単なるひとつ(単一)ではなく、相互内在によって成立している「ひとつ」です。

 

以上は、出来事としては、時系列的なものとして理解できますが、本質的には、神の創造の時点で、人間の本質として定められたものであり、「常に」そうであるべき事態です。この「相互内在」が神の三位一体と繋がっていることを見るのはたやすいでしょう。ただし、その繋がりはあくまでも象徴的なものです。神が「一者から三者になる」のではありませんし、三位一体の中に「男性」と「女性」を読み込むことも不適切です。象徴しているのは「相互内在」の神秘であり、そこに愛があるということです。「愛の神」は、相互内在の神です。その相互内在に与るように、神は人を創造されました。その相互内在とは、人と聖霊の相互内在であり、さらには、人と人との相互内在的な人格的交わりです。これが、神のかたちであり、それに似せて造られた人間の在り方なのです。

 

この「相互内在」によって、人格的な関係が成立します。そこには、すでに三位一体の箇所で学んだように、「呼びかけ」(人格的言語)があります。アダムは動物に名を付けましたが、その言語は、人から動物への一方的なもので、人格的ではありませんでした。神は、そこにエバを登場させたのです。ここに、言語による交流が成立し、「我と汝」が誕生しました。この二人は単なる男女ではなく、「我と汝」の原型です。両者は「人」としては「ひとつ」でありながら、まったく異なる「別の人格」でもあります。その二人は言語によって人格的に結びつくのです。

 

このような「相互内在」を新たに創造するのが神の救いです。それは、神の相互内在に人を導きいれるより他に道はありません。まず出発点となるのは、神ご自身の「相互内在」が啓示されることです。神の愛は、単に「天の神」が地上の人間を慈しむというレベルではなく、神ご自身の「かたち」そのものなのです。本来、その「かたち」に与るはずであった人間は、それを拒否し、あるべき相互内在が崩れてしまいました。そこに、神のかたちである御子が現われたのです。御子は、御父との相互内在を表し、さらに聖霊も啓示されました。弟子たちは、イエス様と御父との相互内在は垣間見たかもしれませんが、自分たちがそれに関わることはできませんでした。イエス様は、あくまでも従うべき主であり、自分たちはその僕以上ではなかったのです。ですから、イエス様は御父のもとに帰り、代わりに聖霊を遣わされたのです。聖霊が与えられることが、すなわち聖霊と私たちの相互内在の始まりであり、それが実はキリストとの相互内在でもあったのです。この消息は、ヨハネ福音書に詳しく記されています。

 

ですから、キリストとの相互内在にあることが、すなわちキリストのかたちを共有することになるのです。そして、それは父、子、聖霊の相互内在に導き入れられることでもあります。ただし、ここに重要なポイントがあります。以上のことは、もちろん神秘ではありますが、神秘「だけ」のことではありません。創世記にあるとおり、「相互内在」の神秘は、神と人との間だけではなく、人と人との間にも実現されるべきことがらです。ヨハネ福音書にあるとおり、「私たちは互いに愛し合うべき」であり、それが神の愛の現れでもあるのです。