礼拝メッセージ要約
2024年9月1日 「予知と予定」
ローマ書8章
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
神が万事を相働かせて益としてくださるのは「神のご計画に従って召された人々のため」です。29節で、パウロはこれを受けて、この人々のことを「あらかじめ知っておられる」人々を読んでいます。8章はローマ書のいわば頂上ですが、ここで重要なテーマがいくつも登場します。「三位一体」、「予定」、「神のかたち」といったものです。これらはいずれもキリスト教神学の最難問で、古来議論が絶えることがありません。(ただし、私たちを救うのは、キリスト教神学を信じることではなく、キリストご自身を信頼することです。キリスト教とキリストは別です。人のプロフィールを知っているのと、その人自身と親しいのとは別なのと同様です)。とは言え、これらの議論は救いの「理解」を深めるためには重要ですから、パウロの語ることに耳を傾けましょう。
今回は、29節にある「予知」(神はあらかじめ知っておられる人々を〜)と、「予定」(あらかじめ定めされた)という箇所です。まず確認することは、パウロがこれらのことを話題にしている目的です。それは、私たちの救いの確かさを強調するためです。ですから、その目的の達成に役立つなら議論には意味があります。また、様々な議論の中から、自分にとって役立つバージョンを選んだり、自分なりの解釈をする場合も、この目的から逸れないことが肝心です。その上で、このテーマを考えていきましょう。
まず「予知」です。文字通り「前もって知る」という意味です。「前もって」とは何の前のことでしょうか。この箇所には明記されていませんが、聖書の他の箇所などから、「天地創造の前」と解釈されています。しかし、これは象徴的な表現ととるしかないでしょう。というのは、万物(宇宙全体)の始まりが、すなわち空間・時間の始まりでしょうから、時間の存在より「以前」というのは理解しようがありまえん。(私たちにとっての「時間」とは別の次元の時間があるとしても、それがどのようなものなのかについては空想する他ないでしょう)。ですから、創造以前ではなく創造と同時にでもいいのですが、そのような「物理的な」問題を持ち出さなくても、神の「全知全能」の当然の帰結だと言うこともできます。
ここで気を付けるべきなのは、「時間」です。聖書には「時間」あるいは「時」に関する話がたくさんでてきます。最重要なのは「永遠のいのち」でしょう。当然、永遠や永遠ではない時について多くのことが語られます。しかし、そもそも「時間」とは何かというのは、神学、哲学、心理学にとって最大の謎の一つであって、容易な答えがありません。ですから、永遠を含めて時間に関する話をする時には、どういう意味で言っているのか注意する必要があるのです。この箇所で言われているのは「以前」です。時間の本質が何であれ、私たちは日常的に「以前」「以後」という言葉を使い、その意味は理解しているでしょう。時間の中の「順序」という側面です。ですから、今回の箇所でも順序だけを考えればよいのです。すなわち、私たちの経験は、それがいつであっても、神はそれ「以前」にご存じであるということです。さらに、聖書のこの箇所が語るのは、私たちの個々の経験ではなく、その総体、すなわち私たちそのものを神はご存じだということです。
この「予知」を抽象的に考えてはなりません。抽象的な考えとは、神と人とを第三者的な立場から眺めて、神の知識が先で人の経験が後だと判断するような考えです。私たちは絶対に第三者にはなりません。あくまでも当事者ですから、聖書のこのような記述も、当事者として読む必要があります。「神が自分のことを知っている」とは「自分は神に知られている」という意味です。自分がだれに知られているかと言えば、それは親などの家族や周囲の人たちでしょう。また、自分が自分自身のことを知っている(いわゆる自覚)という側面もあります。それがどのようなものであっても、それに先立って神に知られているのです。これが「神の予知」ということです。
ただ、パウロのここでの言葉を、そのような一般的な意味での「予知」というよりも、いわゆる「救われる人」がだれであるかを神は知っているという意味にとることが一般的です。そのため、あらかじめ定められた(予定)と組み合わせて、神は最初から救われる人がだれなのかを決定しているという風に解釈する人が多くいます。これを「予定説」(カルヴァンが有名)と言います。(救われる人だけでなく、救われない人も予定されているとする「二重予定説」というのもあます)。
この予定説はしばしば物議を醸しだし、これに反対し、人間の選択に余地を残すアルミニウス主義も現れ対立しています。(今日では、その両者とも違う、様々なリベラル(自由主義)の立場もあります。)予定説の長所は、神の主権や恵みを強調することで、短所は神の意志が運命と同義になってしまう(つまり、人間の責任がなくなる)ことです。長所は決定的に重要な点で、短所は致命的でしょう。ですから、このような問題に正解などあるはずがありません。正解がないのは、哲学的な問題以上に、第三者的な視点で語っているからです。
この問題は、結局、神の主権と人の自由意志という話になります。神が全主権を持っているなら人に自由はないではないかという主張です。これに対して、神は人をロボットとして作ったのではないということが主張されます。この議論に終わりはありません。そもそも「主権」や「自由」、「意志」が何を意味しているのかさえ定かではないのですから、抽象的な議論は的がはずれてしまいます。あくまでも、当事者の立場で語らなければなりません。ここでの「予知」と「予定」は前節の「神のご計画に従って召された」の言い換えです。ご計画の内容は無限でしょうが、ここでのテーマは復活です。私たちにはその計画に与る希望があります。もちろん、これは人ではなく神ご自身が立てた計画です。そして、計画を単に説明するだけではなく、具体的にその計画の中に私たちを召しました。私たちは、自分の好みでこの計画を選択したのではなく、召されたのです。召されたとは、しもべとなったという意味です。ローマ書冒頭で、パウロは福音のために使徒として召されたと自分を描写していますが、私たちも同様に「しもべ」とされたのです。これらの事情を「予知」と「予定」と表現しているのです。
ですから、「当事者」の立場とは、救いの恵みの現場にいる者の立場です。自分がキリストを選んだのではなくキリストが自分を召してくださったのだから「予知」「予定」は当然です。同時に、そこには「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」という側面があります。主の名を呼ぶこと自体、神の恵みによることではありますが、それでも、この自分が主の名を呼ぶことに変わりはありません。この消息を自分のこととして把握することが重要です。「私が主の名を呼ぶのは、主がそうさせてくださっているからだ」ということです。さらに、それが一回一回の個人的な出来事を超えて、普遍的なことがらでもある(初めからそうなっていた)という点も重要です。前節での「被造物全体」という空間とともに、時間的にも普遍的な内容がここで語られているのです。