礼拝メッセージ要約

2024825日 「御霊の志向と神の計画」

 

ローマ書8章

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 

27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 

28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 

29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 

30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 

前回、深いうめきによる聖霊のとりなし(の祈り)について読みました。言葉にならない(非言語的な)祈りが有効であるのは何故かという問いに対して、パウロは27節で答えを与えています。「人間の心を探り窮める方」すなわち神は御霊(聖霊)の思いが何かをよく知っておられるというのが答えです。ここで「探り窮める」と訳されているのは、「丹念に、あるいは熱心に探る」という意味の言葉です。この言葉は他の箇所でも使われています。黙示録223節ではキリストが人の思いを探るとあります。また第一コリント210節では、御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ぶとあります。まとめると、神(御父)は聖霊を探り、聖霊は御父と人(あるいは全て)を探り、キリストは人を探るとなります。もちろん、書いてはいませんが、御父が人を探るのは当然でしょう。また前述のコリント書では、私たちはキリストの思いを知っているとも書いてあります。

 

ここに、神の三位一体と、それに参与する私たちの関係が表現されているのは明らかでしょう。今まで学んでいる「相互内在」の実体(の一部)が、「思いを探り窮める」という形で表現されています。相互に「探り窮める」のですから、思いが共有されるという結果になるでしょう。このことを前提として今回の箇所を読んでいきます。まず、「御霊の思い」とあるのは、以前読んだ、「肉の思いは死であり、御霊の思いはいのちと平安です」の句にある「思い」です。この「思い」は単なる「気持ち」や「考え」以上で、「志向」と訳せる言葉であることも学びました。聖霊の祈り(うめき)は聖霊の志向の現れで、神(御父)はそれを探り窮め、ご存じであるというのです。

 

ここに、前回「祈り」について学んだ「うめき」「ことば(言語)」の問題が関係してきます。日常的には、言葉にならないのは、感情を適切に表現できる言葉が見つからないとか、考えがまとまっていないため適切な文章が作れないというような場合でしょう。私たち人間の場合には、そのようなことはいくらでもあります。しかし、聖霊がそのようなお方だと考えることはできません。(もし、聖霊が人間と同レベルなら、そもそも何の意味もないでしょう)。ですから、聖霊のうめきとは、聖霊の言語能力の不足(すなわち言語未満)ではなく、言語以上のことがらです。この「言語以上」の形で「聖霊の志向」が表現されているのです。「志向」とは深いレベルでの考えで、それによって行動が決定されるような事態のことです。ここでの「行動」とは、単に目に見える動き以前に、そもそも言語による具体化という動きも含まれています。言語活動も行動なのです。ですから言語(も含む行動)を生み出す力と方向性が「志向」であると言えるでしょう。

 

従って、志向とは、言語の母体となる真実の在り方(方向性)のことです。うめきは、一方では、その志向が言語化によって限定される以前の志向そのものの現れてあるとともに、他方では、そのうめき自体が、隠れた志向を指し示していると言えます。これは三位一体や相互内在の所で見てきた、「表現」というものの内実を表しています。内側のものが外側に現れ、外側のものが内側を指し示すのが表現です。この表現は、人間の場合、不完全な形でしか実現できません。しかし、神の場合は当然、人とは異なり完全なものです。

                                                                                                                              

聖霊の志向を神(御父)がご存じであるのは、ある意味では当然でしょう。神なのですから。しかし、「知っている」というのは、単に情報を共有しているだけではなく、生きた(活動的な)相互関係(人では人格的関係)であり、相互に表現的な関係があるということです。(三位一体の箇所で述べました)。ここでは、御父と聖霊にある、そのようなダイナミックな相互関係が表現されているのです。それが聖霊のうめきです。聖霊のうめきは、次のような順番に起こるプロセスではありません。「聖霊がうめきによって、内部の指向と指し示す」、「御父がそれを探り発見する」、「御父がそれに対応する」というような、人間の場合のような時系列の手順とは異なります。(全知なのですから、そんな手順は不要でしょう)。御父は聖霊のうめきが何なのか最初からご存知です。うめきの内容は、神の御心に従ったとりなしの祈りです。御父と聖霊の間で「意思」は完全に一致しているのです。それでも「うめいておられる」意義については前回学びました。

 

この「うめき」は聖徒のためのとりなしです。もちろん、自分ひとりだけではなく、多くの人々のための祈りです。もちろん、身近な特定の対象のために具体的に祈ることはできますし、それも大切です。しかし、問題が大きくなればなるほど、私たちの認識を超えて祈らなければなりません。もちろん、結論は「御心が行われますように」となりますが、それが単なる「諦め」(よく言えば委ね)ではないところが「うめき」なのです。そして、この「うめき」が一時のものではなく、継続していくことができるのは、それが「神の子どもたちの現れ」までが視野に入っているからです。

 

このことを背景として、28節に有名な句が書かれています。「神は万事を働かせて益としてくださる」という言葉です。ここの「益」は、「善」という普通の単語で、定冠詞もありませんから「最後は何とかなる」という楽観論でもあり得ます。ただ、直訳すると「良い方に」というニュアンスですから、最後の状態に限らず、良い方向へと解釈することもできます。「すべてのことを働かせて」とは、「すべてを協働させて」(共に働くようにして)という意味です。前節に、被造物全体は「目的を失っている(虚無に服している)とありましたが、ここでは、それと対照的に被造物全体が善と言う目標に向かって、共に働いているというのです。(それが産みの苦しみです)。ですから、ここでの善は、やはり神の視点での善ということになるでしょう。

 

この意味での善は、神のご計画と言い換えることができます。すなわち、神のご計画に従って召された人々のために用意されている善です。この人々は、神を愛する人々とも呼ばれていますが、もちろん、神を愛しているのは神によって召された結果であって、初めから神を愛していたわけではありません。神のご計画によって、神を愛するように召されたのです。この「ご計画」という言葉は、黙示思想に典型的なもので、天地創造の前から用意された救済計画という意味があります。パウロもこの枠組みを使って、神の選びという恵みを伝えようとしています。(選びについては、9章以下語られます)。

 

以上のようなビジョンのもとで、聖霊の「うめき」に参与して私たちも産みの苦しみをしています。苦しみの中にいると、まるで世界が自分を見放したかのように感じるものですが、私たちは聖霊との相互内在により、そのうめきのただ中で、被造物全体が共に働いて、神の善の中へと(直訳)導かれています。このようにして、私たちは永遠の昔に用意され、永遠の未来に向かって実現していくご計画の中におり、生かされているのです。