礼拝メッセージ要約

2024818日 「言葉にならない祈り」

 

ローマ書8章

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 

27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 

28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 

29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 

30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 

パウロは、神の子どもたちの現れを待望する被造物のうめきを聞き取っています。被造物の一部である私たちも「復活」への望みの中で同様にうめいています。この被造物・人間の「うめき」は、実は「うめき」の全てではありません。ここにパウロは「聖霊のうめき」について語ります。26節にあるように、御霊ご自身が「言いようもなき深いうめきによって」とりなしをしていてくださるのです。

 

今回はこの26節を読んでいきます。パウロはまず、私たちの現状を描写します。「弱い私たち」(原文は私たちの弱さ)とありますが、ここでの「弱さ」とは、具体的には、「どのように祈ったらよいかわからない」(原文は、何を祈るべきか分からない)という弱さです。もちろん、私たちは人間としてあらゆる弱さを持っています。だからこそ、「からだの贖い」を待ち望んでいるのです。ただし、そのような将来のビジョンはあくまでもビジョンであり、具体的な姿は現れてはいません。(目に見えないとはそういうことです)。その「待望」の中にいること自体にも意味があることを前回学びました。

 

待望に中にいることは素晴らしいのですが、向かうべき先が「見えない」ことに変わりはありません。だからこそ私たちは祈るのですが、その時に「何を祈るべきなのか」私たちは分かっていないとパウロは言います。ある人は言うでしょう。「いや、分かっている。復活という具体的なゴールを待望して祈っているではないか」と。実はここに重要なポイントがあるのです。復活にせよ何にせよ、私たちはできるだけ具体的に祈るように言われています。祈りが神との対話である以上、それは大切なことです。(独り言や定型文の復唱、あるいは呪文の類ではないということです)。また、ある人たちは、祈りをリクエストや注文のように扱い、そうであるならば具体的に注文しなければオーダーした品(祈りの答え)は受け取れないと教えます。そればかりか、注文したら、すでに祈りは答えられたと宣言するのが信仰だとも言います。これらの話は皆それぞれ一理ありますし、それを裏付ける聖書のことばもあります。

 

しかし、そのようなことは、ローマ書の論点からは外れているでしょう。パウロはここで産みの苦しみの話をしているのです。そして、祈りの先は復活であり、万物が新たにされることです。それらを待望していることがすなわちここでの「祈り」です。(主の祈りのその一部と考えられます)。この「将来」をカレンダー的に見るのではなく、自分自身のこととして受け取る(すなわち傍観者ではなく当事者となる)時に祈りが生まれるのです。そして、当事者は、「何を祈るべきか知らない」のです。どういうことでしょうか。もちろん私たちは「復活」のために祈ることはできます。あるいは実質同様なことですが「御国が来ますように」と日頃祈っています。当たり前ですが、これらの祈りは「言葉」によってなされます。

 

問題はこの「言葉」です。言葉には意味があります。(あるべきでしょう)。では、「御国が来ますように」とはどういう意味でしょうか。「御国(神の支配)」、「来る」、「〜ますように」は具体的に何を指しているのでしょうか。もっと言えば「神の支配」の「神」、「支配」自体を理解することも容易ではなく、ローマ書全体がそれを語っていると言っても良いほどです。「〜ますように」というのは、要するに私たちがそのように祈っているということですが、そもそも「祈り」と単なる願望との違いも単純な話ではありません。ですから、例えば主の祈りの一節であっても、私たちは実質的に何を祈っているのか具体的には分かっていないのです。

 

これは何も遠い将来のことばかりではありません。そもそも祈りは、何らかの形で将来にかかわるのですから、どのような祈りでも同様の問題があるのです。(それが嫌な人は、単なる物品のリクエストしかできないでしょう)。これは言葉(言語)そのものの限界です。(同時に、言語の持つ肯定的な機能もあります)。私たちは通常「言葉にできない」という「言葉」で、感情を的確に表現することができないと訴えます。それは事実ですが、言葉にできないなのは感情ばかりではありません。「御国」も「来る」も、言葉にはなっていますが、それが現実に何なのかは自明ではないのです。言い換えると、私たちは祈るべき「言葉」は持っていても、祈るべき「現実」は知らないということです。例えば「早く風邪が治りますように」というようなシンプルな祈りであっても、「早く症状が治まって出勤できますように」という意味に「置き換えて」祈ることができるだけで、「風邪」や「健康」の真の現実まで到達することはできません。

 

ですから、私たちはあくまでも言葉で祈りつつ、何を祈るべきか分かっていないことを自覚すべきです。(言葉で祈らないと、この自覚も出てきません。どうせ分からないから言葉で祈らないというのは完全な誤りです)。この実践と自覚の深まりがすなわち「うめき」であり、「私たちの弱さ」です。この「弱さ」を助けてくださるのが聖霊に他なりません。ここで「助ける」と訳されているのは、「寄り添う(参与する)」という意味の言葉で、「助ける」という意味でも用いられます。内容としては、ヨハネ福音書の「助け主(寄り添い弁護する者)と同一と考えられます。聖霊は、「私たちが何を具体的に祈るべき」なのかを教えるのではありません。すなわち、祈りの言語を厳密化するという「哲学」的な働きをするのではないということです。(そのようなケースもあり得るでしょうが)。むしろ聖霊は私たちと似た「うめき」によって祈られるのです。(「言いようもない」とは言語化できないという意味です」。

 

(注意点をひとつ。「うめき」を異言と同一視する人がいますが、基本的に「異言」は学習したことのない言語です。パウロは「み使いのことば」としての異言も語っているので、通常の意味での外国語に限らないでしょうが、あくまでも言語であって(すなわち意味があって)うめきではないことは重要です)。

 

聖霊はこの「うめき」によって祈っておられるのですが、この「祈り」は「とりなしの祈り」です。原語には「私たちのために」という言葉はありませんが、「とりなし」とは他者のために祈ることですから、私たちのための祈りであることは確かですが、「私たちのためだけ」ではなく、「神の子どもたちの現れ」全体のためでもあるでしょう。すなわち、「私たちの祈り」に寄り添って助けてくださるのです。私たちは当事者として、すなわち私たちを含む被造物全体のために、被造物全体のうめきとともにうめくのですが、実は、そこに聖霊が寄り添い、私たちのうめきを超えた「深いうめき」をもって祈っておられます。聖霊と私たちの相互内在という「今」の現実と、将来の現実とをつなぐのがこの「うめき」です。そして、実は、被造物全体もそのうめきを共にしており、そこに「祈り」があります。この祈りは言葉を超えて、真の歴史を創造していくのです。