礼拝メッセージ要約
2024年8月11日 「希望」
ローマ書8章
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
前回、私たちの「うめき」と世界(被造物)の「うめき」は「産みの苦しみ」です。すなわち、未来への希望があること学びました。今回は「希望」について聖書から読んでいきます。私たちは、「この希望によって救われている」とあります。「希望によって」は「希望にあって」と訳す方が良いかもしれません。当たり前ですが、救うのは神であって希望ではありません。また「救われている」とありますが、動詞はアオリストなので、現在の状態(救われている状態)のことではなく、決定的に起こった事実を指しています。(必ずしも過去ではありませんが、過去形「救われた」と訳すことも多いです)。要するに、「神の救いに与る」という確定的な出来事は、「希望」において存在しているということです。やや分かりにくい表現で、いろいろな解釈があり得るでしょう。
一番わかりやすいのは時系列的な解釈です。アオリストをあえて過去形にようにとって、「私たちは(すでに)救われた。ただし、復活は将来のことなので、それについては希望(期待)している」と読むのです。わかりやすいのですが、過去形に変えているのと、「希望」を「期待」と同義としているところが問題です。言い換えると、「希望」をどう捉えるかということです。希望には、もちろん「期待」の意味があります。25節に「熱心に待ちます」とあるとおりです。(この句については後で検討します)。「期待」(肯定的な意味で待つ)ことには、当然ゴール(待っている対象)があります。この文脈で言えば「からだが贖われること(復活)」です。将来の出来事ですから時系列的な話です。そして、その「待つ」こと自体は、ゴールに到達した時点で終了します。
ところが、「希望」には違った側面があります。有名な言葉ですが、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」とあるように、「希望」は永遠のものであり終わることがありません。つまり、復活をもって終了するようなものではないのです。「愛」が永遠であるとはよく言われることです。「信仰」も「救われるための条件」としてではなく、神に対する信頼という意味なら当然永遠でしょう。では「希望」が永遠であるとはどういうことなのでしょうか。ここに、単なる時系列的な話ではない、重要なポイントがあるのです。
時系列的(ユダヤでは黙示思想的)な話にはもちろん意味があります。「まだ目で見ていないものを待ち望んでいる」という「期待」に対して、やがて「目で見る」というゴールが対応しています。ここで、この「目で見る」とは、いわゆるキリストの再臨と死者の復活を指しているでしょう。しかし、このような表現の霊的・象徴的な意味を解さず、単に図式的な年表のように扱うならポイントを見失ってしまいます。そもそも、再臨のキリストを「目で見る」とはどのような事態なのか、霊のからだとはどのようなものなのか、それらを象徴的な形以外で語ることは不可能です。このような事柄の詳細に立ちいることは今できません。すべては「終末論」という大きな話になってしまうからです。それ以上に重要なのは、これらが「救い」という肝心の事柄につながるのかという点です。キリストを目で見ることや復活することがそのまま「救い」ではないからです。(この事態を「象徴的に」語っているのが、いわゆる最後の審判でしょう)。そもそも時系列的な説明とは、第三者的な立場から観察した結果であって、当事者の視点とは異なります。私たちは、あくまでも「当事者」として救いに与るのでなければなりません)。
ですから、時系列的な期待とは別の意味で、永遠の希望というものを受け取らなければなりません。そして、そのような「希望」の中に「再臨」や「復活」を捉えるのです。最初に「再臨」や「復活」を定義したりイメージしたりして、それらを待つという順序ではなく、まず永遠の希望に捕らえられて、その中で歴史を見るのです。その「歴史」は、「創造」から「現在」までの過去と、現在から「新創造」への未来という形で開かれています。その未来の具体的な内容として、再臨や復活のビジョンが与えられているのです。もしそうでないなら、私たちは、この世界の苦しみを産みの苦しみととることはできないでしょう。人間の出産であるならば、苦しんだ先にある赤ちゃんの誕生を見聞きしていますから、自分の苦しみに耐える希望を持つことができるでしょうか、純粋に未来に属することは、だれも見たことがないのですから、この苦しみが産みの苦しみなのかそうではないのかを判断することはできません。(無理やり自分に言い聞かせるだけになってしまうでしょう)。
この意味で、永遠の希望は愛や信仰同様、神から与えられるものです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった」のですし、私たちがキリストを信じたのではなく、キリストの信仰(真実)が私たちに与えられたのです。希望も永遠であって、永遠のものは神に属します。この希望は、再臨や復活で消えてしまうようなものではありません。終末論的ではなく、一般的なイメージである「天国に行く」という場合で言えば、天国到達がゴールではなく、そこにも永遠の希望があるということです。「永遠の希望」は時間の経過に制約されていないのです。逆に言うと、時間制限のある希望は人間的な希望であり、その中には「救い」はないのであって、人間ではなく「神の希望」の中にこそ救いがあるということです。この「神の希望」とは、神ご自身に属する希望と、それへの応答として、人間が神に対して持つ希望の両面があります。(これは、信仰の場合と同様です)。この「神に属する希望」は、ローマ書では後に「希望の神」という表現で登場しますが、人間の側からの視点では、そこに「待つ」という要素が登場します。
ですから、聖書にしばしば登場する「待つ」「待ち望む」と表現も、この「永遠の希望」とセットで理解する必要があります。「主を待ち望む者が力を得る」などの言葉も、日常的(時系列的)に、神の行動を待つというだけでなく、「待つ」に含まれる「侍る〜はべる(主人に仕えるために、主人の傍らにいて、その言葉を待つ)」という意味になるということです。英語で言えば、wait for something ではなく、wait on the Lord のwait (ウェイターの語源)になります。実質、仕えると同じことですが、単に命令に従って動き回るのではなく、じっと主のそばに留まり、主のことばに耳を傾け、必要となれば行動するということです。このが「待ち望む」ことであり、神の希望への応答です。このような「希望」に終わりがないのは言うまでもないでしょう。
この事態をローマ書で言うなら、キリストとの相互内在に導き入れられた私たちは、決定的に主のそば(これ以上ない位のそば)にいるのですから、私たちは主の喜び、苦しみ、希望を共有しているということです。この「相互内在」が露わになることが、一方ではキリストの再臨、他方では「神の子どもたちの現れ」という形で表現されているのです。その意味で、この「希望」は神の希望であり、また私たちの希望でもあるのです。